その村の奥には、古びた宿があった。
村人たちの間では、宿には狐が住んでいるという噂がささやかれていた。
宿は長い間放置されており、誰もその中に入ろうとはしなかった。
しかし、越前の青年、健太はその話を聞き、好奇心から宿を訪れることを決意した。
ある晩、健太はランプを片手に宿の前に立った。
宿は薄暗く、蔦が絡まり、見るからに不気味な佇まいだった。
村人たちが口にする「狐」の存在が、本当にこの宿にいるのか確認するための冒険だった。
入ると、宿の中は静まり返っており、空気は重く感じた。
健太はすぐに、自分の選択が間違いだったのかもしれないと思った。
しかし、一歩ずつ足を進めると、宿の奥の方から微かな音が聞こえてきた。
それは、人の声のように聞こえたが、すぐに硬直した。
声は何かを呼んでいるようで、胸が締め付けられる思いだった。
その時、突然、薄暗い廊下の端に狐が現れた。
狐は真っ白で、眼は不気味なほど輝いていた。
健太は思わず後退し、狐を見つめた。
「一緒に来なさい」と、狐はまるで人間のように話しかけた。
健太はその声に引き寄せられ、気がつくと狐の後を追っていた。
狐は宿の奥へ導き、健太を小さな部屋に連れて行った。
部屋には昔の調度品が無造作に置かれており、何か不思議な雰囲気があった。
狐はじっと健太を見つめていた。
「ここは私の宿。ここに来る者には特別なものを見せてあげる」と言い放つと、その目がさらに光を放った。
「特別なもの?」健太は恐れながら問いかけた。
「その界に足を踏み入れれば、あなたの望みが叶う。だが、代償が必要だ」と狐は告げた。
健太は心がざわめくのを感じた。
「代償とは一体?」
狐は静かに微笑んだ。
「それはあなた自身の一部。大切な記憶や感情を選ぶことになる。何が欲しい?」
健太は考え込んだ。
彼は人として平凡な人生を過ごしてきたが、特別なものを手に入れたいと思った。
心の底に沈む後悔や不安をそっと押し殺し、彼は決心した。
「それでも、私は何かを手に入れたい。」
狐は満足そうに頷き、「さあ、進もう」と言うと、健太を再び部屋の奥へと導いた。
健太はそのまま進み、気がつくと見知らぬ空間に立っていた。
そこは彼の過去の記憶のようで、さまざまな人々の笑顔や思い出が溢れていた。
時折、過去の出来事が目の前に現れ、彼の心に影響を与えた。
しかし、彼はその美しさに酔いしれながら、代償のことなど考えられなかった。
あまりの心地よさに引き寄せられながら、彼は欲望に溺れていく。
その瞬間、狐が彼の耳元で囁いた。
「あなたの選択が生む運命は、果たして受け入れられるものなのか?」健太は動揺した。
その言葉の通り、過去の記憶の中には微かに苦いものや、封じ込めたはずの傷があった。
次第に、彼はその記憶から逃げられず、自身が選んだ過去ばかりにとらわれるようになった。
苦悩が募り、彼の意思は徐々に失われていった。
数日後、村人たちは再び宿のことを噂し始めた。
健太は帰らぬ人となり、宿の奥には、狐が若者の命を奪い去ったという新たな伝説が生まれた。
彼が望んだ特別なものは、果たして幸せだったのか。
宿は今も奥で静かに彼を待ち続け、健太の代わりに、再び新たな犠牲者を求めているのだった。