彼の名前は雅樹、28歳の職業はサラリーマン。
彼は忙しい日常から逃れたくて、週末には山へハイキングに出かけることが多かった。
ある日、雅樹は友人の誘いで、普段行かないような人里離れた山に行くことになった。
言い伝えによれば、その山には「の」という名の生き物が住んでいるとされ、うっかり近づくと不幸を呼ぶと言われていた。
雅樹はその話を軽く流し、仲間と共に山へ向かうことにした。
山の入り口に立つと、彼らの心は高揚感に包まれ、大自然の美しさを存分に楽しむことができた。
しかし、徐々に空は曇り、雲行きが怪しくなっていく。
仲間たちが「これから雨が来るかもな」と言い始めたが、雅樹は「大丈夫、まだ行けるよ」と勇ましく山道を進んでいった。
山を登るにつれて、雅樹は妙な感覚を覚え始めた。
耳には木々のざわめきが聞こえ、そこに住むかのような気配を感じた。
そんな時、彼の足元に小さな石が転がってきた。
何かの気配を感じながらも、気にせず進み続けた。
仲間たちはすでに先に進んでしまっていた。
しばらくして、急に視界が暗くなり、雨が降り出した。
雅樹は急いで周囲を見渡したが、仲間たちの姿はどこにも見当たらない。
彼は不安になり、「みんな、どこにいるんだ?」と叫んだが、返事はなかった。
雨は次第に強くなり、彼の身体を濡らしていく。
一人で閉じ込められたような感覚に、彼は逃げようとしたが、道を見失ってしまった。
目の前には、大きな木が立ち、その周りには異様な静けさが広がっていた。
まるで時間が止まったかのようだった。
その瞬間、彼の耳に何者かの声がかすかに聞こえた。
「雅樹、雅樹、こちらへ来い……」
恐怖が彼の内面に忍び寄る。
声の方向へ進むと、再び小さな石が転がり、ただの石とは思えない光景が広がっていた。
ふと、彼は目の前に現れたのの姿を見た。
それは、人間の形をした影であり、その目は不気味に光っていた。
のは言葉を発しないが、彼に何かを訴えかけているようだった。
雅樹は思わず後退りしたが、影は彼を引き寄せようとした。
彼の身体は言うことを聞かず、どこからか湧き上がるエネルギーと共に、のの周りへ引き寄せられていく。
彼は「いやだ!離してくれ!」と叫んだが、声は不気味な静寂に吸い込まれていった。
その瞬間、彼の中に何かが流れ込んできた。
身体が冷たくなり、視界が歪み始める。
心臓が激しく鼓動し、彼は苦しみながらも、その影との対話を試みた。
「お前は何を求めているんだ!」と叫ぶと、のは答えた。
「体を返してほしい。私の持ち物を返せ。」
その言葉に雅樹は愕然とした。
のは、かつて何かを失った存在。
彼は急に恐ろしい現実を理解し始めていた。
山の神秘と呼ばれるその生き物が力を求めることは間違いではないが、彼の体がその生け贄となることは許されないことだと感じた。
必死に逃げようとしたが、身体は重く、まるで泥沼に沈み込むようだった。
彼は自らの意志で、何とか影から逃れようともがき続けた。
その時、自分が山の中で何をしているのか、何を守らなければならないのかを改めて考えた。
心を込めて思い描いたのは、仲間たちの顔だった。
彼らと共に過ごした日々、笑顔、思い出。
その一瞬の思いが彼の身体に力を与えた。
「絶対に負けない!」と心の中で叫び、全力で逃げ出した。
周囲の影が崩れ、やがて姿を消していったが、その影の声は今も耳に残った。
気がつくと、彼は雨の止んだ山の頂にたたずんでいた。
その時、彼は何か、暗闇から逃れた手応えを感じていた。
しかし、決して振り返ることはできなかった。
何かが彼の心に残る限り、山の存在は常に彼を見守っているかのように思えた。
最後の一歩を踏み出したとき、彼は心の中で誓った。
二度と、あの山には近づかないと。