かつて、ある小さな街に住む老夫婦がいた。
夫の名は和夫、妻の名は美智子。
彼らは長い間、静かに穏やかな日々を過ごしていた。
しかし、年を重ねるにつれて、周囲の人々が次第に姿を消していくのを感じていた。
その街には古い伝説があった。
かつて、この地に住む者が「還(かえ)る」ための場所として意識されていた。
街の外れには古びた神社が立ち、そこに祀られている神様は、かつて人々を守り、平和をもたらしたと言われていた。
ある日、美智子が朝早くに目を覚ますと、和夫が姿を消していることに気付いた。
彼女は心配になり、家の周りを探し回ったが、どこにも見当たらない。
途方に暮れた美智子は、やがて神社の方へ向かうことにした。
神社に辿り着くと、薄暗い境内に人影を見つけた。
それは和夫だった。
しかし、彼の顔はどこか異様で、彼女は言い知れぬ不安に襲われた。
「和夫、どうしたの?」と声をかけると、彼は振り返り、微笑んだが、その目は虚ろだった。
「お前、もうここにはいられない。私の元へ来るんだ。」和夫の言葉は、まるで響くように美智子の心に響いた。
彼女は恐怖に体が震えた。
和夫は少しずつ後退りながら、神社の奥へと進んでいった。
美智子はその後を追い、神社の中に入っていった。
神の像が佇む場所に着くと、和夫は大胆に手を伸ばして何かを触ろうとしていた。
「やめて、和夫!」と叫んだ美智子。
しかし、彼は振り向きもせず、声を無視した。
彼女は必死に彼を引き止めようとしたが、彼の姿は次第に薄くなり、まるで霧の中に消えていくかのようだった。
心の中に迫る恐怖感に抗えず、美智子は足を止めた。
その瞬間、神社の空気が変わった。
耳を澄ますと、どこからか不気味な囁きが聞こえてきた。
「還してほしい……還してほしい……」
その声は、街の人々の声に似ていた。
かつてこの街に住んでいた人々が、今もどこかで彼らの帰りを待っているのだろう。
美智子は理解した。
それは彼らの願いであり、また和夫の願いでもあった。
「私も、もう一度戻りたいのか?」美智子は心の中で自問自答した。
彼女は、かつての平和な日々を思い返し、人々との絆を感じた。
しかし、彼女は気付いてしまった。
還ることは、過去を捨て去ることを意味しているのだ。
「申し訳ない、でも私はこの街に残りたい。」美智子は必死に叫んだ。
すると、その瞬間、和夫の姿が消え、周囲が静まり返った。
美智子は、一瞬の安堵を感じたが、その直後、街の風景が変わり始め、周りの景色が歪み、かつての人々の影が不気味に浮かび上がってきた。
彼女の心の中には、和夫の思いと彼女自身の思いが交錯していた。
過去を抱え込むことで、彼女は次第に力を失い、街の霊たちに包囲されていく。
美智子は、誰もが忘れかけていた記憶の中に閉じ込められる運命にあるのだと理解した。
そして、やがて彼女も神社の影に隠れ、人々の一部として還ることになるのだろう。
美智子は心の奥で確かに感じながら、彼女自身の選択を受け入れる決意を固めた。
彼女は息を深く吸い込み、そして一歩踏み出した。
振り返り、和夫の名を呼ぶことはなかった。
時が経つと、その街にはまた新たな住人が現れ、平和な日常が再び訪れる。
しかし、古びた神社の奥には、今も昔の住人たちの思いが静かに渦巻いている。
時折、彼らが還りたいと願う囁きが風に乗って街を包み込むこともあるが、それでも、誰もその声に気付かなかった。