滅びの影

浩司は、小さな港町に住む若い漁師だ。
彼は漁業を生業とし、毎日海に出ては新鮮な魚を捕っていた。
町の人々からは不気味だと噂される「影」と呼ばれるものを気にせず、浩司は淡々と仕事を続けた。
影とは、港の沖合に広がる謎めいた霧のことを言っていた。
それは、漁師たちの間で「近づくな、滅びの影だ」と言い伝えられていた。

ある晩、浩司はいつものように漁に出る準備をしていた。
薄暗くて静かな海、そしていつもより濃く立ち込めた霧。
その日は不気味な気配を感じたが、漁の量が減っているため、浩司は思い切って出漁することにした。

薄暗い船の上で、浩司は魚を仕掛けるために網を下ろした。
霧の中から不気味な声が響いてきた。
「滅びの影が近づいている……」その声に怯えながらも、浩司はただ漁に集中しようとした。
心の中ではどこかで、「無」の感覚が広がっていた。
何かが彼を見つめているような感覚だ。
次第にそれは、彼を圧迫するようになった。

突然、浩司はその声がどこから来るのかを探ろうと、視界の狭まった霧の中で目を細めた。
すると、彼の目の前に何かが現れた。
それは、彼の影ではなかった。
浩司の影は、まるで彼自身の動きに従っているかのように、ただの影だった。
しかし、霧の中に浮かび上がったのは、彼の影が少し歪んでいるように見えたのだ。

「あの影は一体何なのか……」浩司は思わず呟く。
それはまるで、彼を誘っているかのように見えた。
影は動き、彼に近づいてくる。
浩司は恐怖が込み上げてきたが、どこか引き寄せられるような感覚があった。

彼は影に向かって手を伸ばした瞬間、全てが変わった。
静寂が訪れ、周囲がにわかに暗くなった。
浩司が見つめていた影は、まるで彼の意識を捉えようとするかのように大きく広がり、その中に吸い込まれるように感じた。

「お前も、私たちの仲間になれ……」それは女の声だった。
浩司は息を呑んだ。
霧の中から、無数の顔が浮かび上がる。
彼らは愛おしさや悲しみを湛えた表情で、浩司を見つめていた。
次々と集まる影たちは、彼を取り囲み、じわじわとその意識を奪おうとしていた。

浩司は必死に船を操り、逃れようとした。
しかし、霧は濃く、周囲がわからない。
影たちの声が耳元で響く。
「逃げられない……滅びの果てで待っているのだ……」

彼は恐ろしい現実を受け入れざるを得なかった。
この影族は、過去に残された者たちであり、彼らは海に沈んでいった霊たちだった。
浩司はその瞬間、彼自身もまた影としてこの場所にとどまる可能性があることを理解した。

彼は全力で漁船をすすけたが、視界はさらに暗くなり、影たちの声はますます大きくなった。
「仲間になれ……ここにおいで……」その声が響く中、浩司の意識はどんどんぼやけていった。

彼が最後に意識を保てたのは、岸が見えた瞬間だった。
しかし、その岸には誰もおらず、彼の心に訴えかける影が待ち受けていた。
浩司はそのまま意識を失い、船から落ちてしまった。
やがて、彼の姿は濃霧の中に溶け込み、永遠に失われたのであった。
港町では、その夜以来、浩司の姿を見ることはなかったという。
影から解き放たれることなく、彼は永遠に「無」となったのだ。

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