深い山道を一人で歩くのは、強い決意が必要だった。
季節は秋、落ち葉が道を覆い、足元で擦れる音が異様に響く。
そんなある晩、大学生の健太は、友人の誘いを断り、ひとりでの帰り道を選んだ。
暗い道をただただ進む彼の頭の中には、いつも耳にしている「山の中には消えてしまった者たちがいる」という噂が浮かんでいた。
その道を通る理由は、健太にとってはただの帰り道だったが、友人たちには「何かが放たれる夜だ」と言われていた。
その言葉の意味は彼自身は理解できなかったが、怖いもの見たさもあって、健太はその話を信じずに道を進んだ。
道を進むにつれて、不気味な静けさが彼を包み込んだ。
今夜は特に彼の背後に何かの気配を感じる。
振り返っても誰もいないが、心の底で、何かが彼を見つめているような感覚が消えなかった。
道の脇に立つ木々が、ささやくように彼の名を呼んでいるように思えた。
しばらく進むと、健太の前に古びた小屋が現れた。
その小屋はまるで長い間放置されていたかのようで、崩れかけた屋根とひび割れた壁が人々の訪問を拒んでいるようだった。
健太は驚くべき衝動に駆られ、その小屋の中に入ってみることにした。
彼は持っていたスマートフォンのライトを点け、小屋の暗闇を照らした。
小屋の中は静まり返っていた。
埃まみれの床に、捨てられた古い家具が点在し、まるで時間が止まったかのような素朴な光景が広がっていた。
しかし、健太はその瞬間、何か違和感を覚えた。
彼の目に映ったのは、急に彼の視界の中に現れた影だった。
影は次第に形を成し、まるで一人の女性がそこに立っているかのように見えた。
彼女は白い服を着ていて、ひどく苦しんでいるようだった。
声は出さず、ただ無表情のまま彼に近づいてきた。
その瞬間、健太の体は凍りつき、動くことができなかった。
「私が消えてしまって、もうこの世界にはいないのよ。」
彼女の口が動いていないのに、言葉ははっきりと健太の心に響いた。
彼女の姿は鮮明だが、その存在自体は明らかにこの世のものではない。
健太は理解できない恐怖感に襲われ、後退しようとしたが、心のどこかで彼女の言葉に引かれていた。
「私を放ってはいけない。助けて。」
その瞬間、空気が変わった。
小屋の中の空間が不安定になり、周囲の物がグラグラと揺れた。
健太は混乱した思いでその場から逃げ出そうとしたが、出口がどこにあるのかも分からない。
絶望的に彼は周囲を探り、ようやく小屋の前に戻った。
外の空気が冷たく、鮮明に彼を現実に引き戻した。
しかし、彼の心の中に残ったのは、女性の消えなかった存在だった。
後ろを振り返ると、彼女の姿はもはや小屋の中には見えない。
健太はそのまま道を急ぎ足で進んだ。
その後、彼は何日も彼女のことが頭から離れなかった。
彼女の姿、声、そして「助けて」という言葉が、夢の中に繰り返し現れるようになった。
友人たちにこの出来事を話しても、誰も信じてくれなかった。
彼の心に宿った不安は、健太をさらに孤独にさせる。
ある晩、友人たちと再度道を歩くことになった。
しかし、その時、健太は友人たちに「助けて」と叫ぶ女性の声を再び聞くことになる。
その声は焦る気持ちと共に、彼を古びた小屋へと導いた。
健太が小屋に足を踏み入れた瞬間、彼女が再び現れ、彼を見つめる。
「あなたが私を放つことはできない。私の憶えが、あなたを選んだのだから。」
彼女が語る言葉に、健太は消えてしまうことの不安を感じながら、気づいた。
彼自身もこの道から消え去りたいという願望を抱えていたのだ。
その瞬間、彼女の影は彼に取り付き、二人の存在はこの道に新たな憶えを残すことになる。
それ以来、健太の姿は消え、彼の名を呼ぶ声だけがこの道に響き渡るようになった。
そして、新たな通行人が現れた時、彼らの耳には確かに「助けて」という言葉が聞こえていた。