消えゆく声

高橋は35歳の若手医師で、日々診察に追われていた。
彼の専門は神経科で、患者の心の病を診ることが多い。
普段は冷静沈着な彼だが、仕事が忙しくなるにつれ、徐々に心の疲労が蓄積していくのを感じていた。

ある日、高橋のもとに新たな患者が訪れた。
名前は山田幸子、彼女は長い間、原因不明の体調不良に悩まされていた。
彼女の症状は奇妙だった。
声が出せず、体が重く、時折意識がぼんやりと消えるという。
彼女の状態はどこか神秘的で、誰にも説明できないものがあった。

診察後、高橋は幸子に症状について詳しく語ってもらうことにした。
静かな診察室の中で、幸子の目は不安に揺れていた。
「私の中には、誰かがいる気がするんです」と、静かに彼女は語り始めた。
どうやら彼女の体の中に「消えた第三者」の存在を感じているというのだ。

その時、高橋は彼女の言葉の響きに心を奪われた。
彼女の話は次第に抽象的かつ感情的になり、医者としての冷静な態度が徐々に失われていくのを感じた。
幸子が語る内容は、単なる精神的な現象というよりも、何か不穏な実体が彼女の身体を取り巻いているように思えた。

「体が重くて、自分を感じられないんです。まるで、私という存在が消えてしまいそうです」と、幸子は涙を浮かべながら続けた。
高橋はその言葉が彼女の心の奥深くにしまわれている叫びであることに気づいた。
しかし、どこかでその叫びが彼を引き込むかのような魅力を持っていた。

診療が進むにつれ、高橋は次第に奇妙な夢に悩まされるようになった。
夢の中で彼は、幸子の体の中に入り込み、彼女の意識を変えてしまう自分を感じていた。
不安定な感覚とともに、彼女の声が耳元で囁く。
「私を助けて……消えないようにして……」

高橋は目が覚めた後も、幸子の言葉が頭から離れなかった。
彼は次の診察日、必ず彼女を助けるつもりでいた。
しかし、そんな彼の心には次第に不安が広がり、予知したように彼女の声が次第に薄れていくのを感じた。

一週間後、高橋は幸子の診察を決行したが、彼女は現れなかった。
心配した彼は、自宅に向かうことにした。
すると、鍵がかかったままの彼女の家の前で、彼は無性にうろたえていた。
インターホンを押しても誰の応答もなかった。

不安に駆られた高橋は、近隣の住民に話を聞いてみることにした。
「最近、山田さんの姿を見ない」と彼は言った。
その住民の反応は曖昧で、彼女は数日前から姿を見ていないという。
高橋は心に何か嫌な予感が走った。

数日後、彼は再び診察室に座っていた。
幸子のことが恋しくて、彼女のことを思い出しながら準備を進めていたが、何かしらの違和感を感じていた。
不安と孤独が彼を襲い、心の奥に薄らいだ声が聞こえた。
「私を助けて……」

診察室の静寂が不気味に響く中、幸子の姿は戻らなかった。
彼女はどこへ消えてしまったのか。
高橋は過去の診療データを全て見返し、彼女のケースを再確認しようと思ったが、何も見つからない。
まるで、彼女は最初から存在しなかったかのように感じてしまった。

そして、高橋は自らの身体に異変を感じ始める。
頭がぼんやりし、記憶が霞んでいくようだった。
そして夢の中に再び幸子が現れた。
「私が消えてしまう前に、私を助けて……」

まるで彼女の言葉が自身に向けられているかのような錯覚を覚えながら、高橋は自身の存在がゆっくりと消えていく感覚に怯えていた。
彼もまた、山田幸子の薄れていく存在の一部になってしまうのではないかと思った。

不安に襲われる高橋は、診療室での惨劇に向かうことを決心した。
このままでは、彼自身もまた消えてしまう。
彼は幸子の思いを受け取り、その消滅に立ち向かう決意をするが、その時彼の心には消えそうな声が確かに響いていた。
「私の思い…消さないで…」

彼は最後まで、消えゆく幸子の声に耳を傾けることができなかった。
しかし、彼が助けられなかった時、高橋の存在も消え、ひっそりとした空間に静寂が戻っていった。

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