影を抱く山の声

山の深い谷間にひっそりと佇む小さな村があった。
この村には、代々言い伝えられる伝説があった。
それは、影が人の心を奪うというもので、多くの村人はその恐ろしさを知りながらも、日常の生活に追われ、忘れ去っていた。

村の外れに住む青年、健二は、その伝説を疑っていた。
彼は都会から戻ってきたばかりで、何も信じない性格だったため、村人たちが影を恐れる理由が理解できなかった。
ある日、健二は気晴らしに山へと登ることを決意した。
村から少し離れた場所には、彼が小さい頃に遊んだ思い出の場所があり、それを再訪したいと思ったのだ。

健二は、道なき道を進み、山の奥深くへと足を踏み入れた。
周囲は静まり返り、ただ鳥のさえずりだけが聞こえる。
しかし、ある瞬間、彼の背後に影が忍び寄っていることに気づいた。
振り返ると、そこには何もなかった。
ただの静寂が広がっているだけだった。

「気のせいか」と自分に言い聞かせ、彼は再び歩き始めた。
しかし、影は何度も彼の周囲で動いていた。
健二は次第にその存在を無視できなくなっていき、心の中に不安が膨らんでいくのを感じた。
彼は再び振り返るが、背後には何もない。
影はいつも彼の視界の外に潜んでいるかのようだった。

そして、ついに彼は伝説の中の「影」に直面することになった。
健二が木々の間を抜け、山の頂上にたどり着いたとき、突然、空気が変わった。
周囲の雰囲気が重く、何かの圧力を感じる。
そこに、彼の目の前に現れたのは、無数の影だった。
彼は恐怖に駆られ、目をそらそうとするが、影たちは彼を取り囲んでいた。

「帰れ」と囁く声が、どこからともなく響いてきた。
その声は彼の心の奥底に響き渡り、抵抗できないほどの恐怖を抱かせた。
次の瞬間、影たちは彼の足元にまとわりつき、彼の動きを封じ込めた。
「私を忘れないで…」と言う言葉が重く胸にのしかかり、健二はその暗闇に飲まれていく。

健二は必死に記憶を引き剥がそうとしたが、影は彼の心を奪い、過去の思い出を鮮明にしていった。
彼は、かつて山で遊んだ日の楽しさや、友達との笑い声、家族との温かな時間を思い出した。
しかし、その記憶が影に侵食されていく。
影の中には、かつて笑顔だった彼自身が不気味に歪んだ姿で彼を待ち受けていた。

「消えてしまいたい…」健二はその思いを抱えたまま心の中で叫んだ。
影はその叫びに応えるかのように、さらに深く彼に迫ってきた。

その時、健二は思い出した。
影が人の心を奪う理由。
それは、「美しい思い出」が消えてしまうことへの恐れだった。
彼は自己を見つめ直し、目の前の影と対峙する決意をした。
「私は、私だ。美しい思い出だけではない、重いものも抱えているんだ」と心の中で宣言する。

影は一瞬驚いた様子を見せたが、姿を変え始めた。
彼の心の中の恐れや悲しみが、影の形を変え、彼の存在を解放するための光となった。
その瞬間、健二の心から影が次々と溶けていくのを感じた。
影たちは彼を離れ、新たな光の中に解放されていく。

健二は、自分が再びこの山を訪れる理由を思い出し、心の奥底から笑った。
影はもう彼を支配することはなかった。
かつて忘れかけていた思い出と向き合うことで、人は影を克服できるのだと知ったのだ。
健二は静かに山を下り、心の中で新たな決意を抱いた。
過去を抱えながら、未来へと歩み続けようとする覚悟を持って。

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