深い夜、静まり返った館の一室で、商の名を持つ青年、健二は一人、薄暗い部屋にたたずんでいた。
この館は、長い歴史を持つ古い建物であり、かつては名家の主が住んでいたが、今は廃墟同然の場所となっていた。
人々はこの館に近づくことを避けていたが、何かに惹かれるように、健二はその場所を訪れることを決意した。
館の入口を開けると、粉塵が舞い上がり、長い間誰も入ってこなかったことを物語っていた。
彼は懐中電灯を手に、古びた木の床を踏みしめながら奥へ進んでいった。
周りは暗く、壁には誇らしげに飾られた絵画があったが、その目が健二を見つめているように感じて、ぞっとした。
彼はすぐにその感覚を払いのけ、もっと奥へ進むことにした。
ふと、廊下の先に見えた影に気づいた。
直感的に、そこに誰かがいるのではないかと思った。
しかし、周りを見渡しても、誰もいない。
ただの光の加減かと思い、無視しようとした。
その時、微かにかすかに聞こえてきた声に彼の心臓が早鐘を打った。
「助けて…私を見つけて…」
その声は弱々しく、かつ悲しげで、どこか切ない響きを持っていた。
健二の身体は思わず動き出した。
それは自分の中の好奇心と恐怖心が交錯する瞬間だった。
館の奥深くへ進むほど、その声は明確になり、健二は声の主を求めて走った。
しばらくすると、彼は一つの部屋にたどり着いた。
そこには大きな鏡が置かれていた。
その鏡の前に立つと、不思議なことに、背後からかつて見たはずの自分の影がこちらを見つめていた。
影は明らかに彼の動きを真似ているが、その目は空虚で、何かに囚われているように思えた。
「私は、もう一つの己だ。」影が囁くように言った。
健二は急に恐怖に襲われた。
自分の影が、言葉を持ち、意識を持ち、そして彼自身の存在を脅かしているのか。
思わず震えた手で懐中電灯を当てると、それが照らし出したのは彼の顔ではなく、醜く歪んだ笑みを浮かべた影の姿だった。
影は次第に近づき、彼の足元に迫る。
「私になって、全てを受け入れろ。」
影の声が耳元で響く。
健二はその言葉に反抗しようとしたが、身体が動かない。
恐ろしさが彼を包み込み、心の中に渦巻く感情が彼を突き動かす。
過去の自分、嫌な記憶、すべてが影の中で渦巻いている気がした。
彼は叫びたかったが、声が出てこない。
その瞬間、影は一気に身体に侵入してきた。
健二は痛みを感じながら、彼の内側で何かが剥がれ落ちていくのを感じた。
自分が自分でなくなっていく感覚。
彼はもがきながらも、四方に押し寄せる闇に呑まれていった。
そして、気がつくと、健二の意識が反転した。
全ての恐怖、悩みを抱えた自分が、この館の影の一部として存在することを受け入れた。
彼は闇の中で新たな存在となり、この館の一部として、次なる犠牲者を待ち続ける運命を背負っていた。
今や彼の瞳は空虚となり、鏡の中の影に、また一人の訪問者の姿が映し出されるのだった。
