彼の名は健太。
27歳のサラリーマンで、繁華街のオフィスで働いている。
夜の街灯の下、健太は毎晩遅くまで残業をし、その帰り道を急ぎ足で通り抜けた。
そんなある晩、いつもとは違うルートで帰ることにした。
少しでも気分を変えたかったからだ。
繁華街を少し外れ、細い路地へと入る。
そこにはまるで時間が止まったかのような静けさが漂っていた。
まばらに並ぶ小さな商店が閉まっている中、ひときわ古びた看板を掲げた雑貨屋が目に留まった。
健太は好奇心に駆られ、その店に足を踏み入れた。
店内は薄暗く、じっとしているだけでもどこか不気味に感じる。
棚には様々な雑貨が置かれ、塵にまみれていたが、どれも独特な存在感を放っていた。
その中でも、ひとつの古びた鏡が彼の目を引いた。
鏡はかすかに輝きを放ち、その向こうに彼の姿が映っていた。
しかし、何かがおかしかった。
映った健太の背後には、はっきりとした影が立っていた。
健太は思わず身を震わせて後退り、目を凝らした。
その影は直立したまま、彼の動きに合わせているようだった。
何かに呼ばれる感覚。
しかしその感覚には引き寄せられる恐怖も混ざっていた。
彼は目を逸らすことができず、気がつけばその影と向き合っていた。
「見つけた…」その影は、はっきりとした言葉を口にした。
驚愕に駆られた健太は、逃げ出そうと後ろへ下がったが、体が動かない。
影の顔は見えなかったが、そこに潜む存在の気配が、彼の内なる恐れに変わった。
「誰だ!」と大声を上げるが、声は消え、街の静けさだけが彼の耳に残る。
影は続けて呟いた。
「あの頃の願望を…思い出せ。」
頭の中が混乱する。
しかし、健太はその言葉に心を捉えられた。
年若い頃、彼は様々な夢を描いていた。
それは常に「成功」と「愛」が伴う望みであり、同時に恐れでもあった。
実際には、社会人となり、毎日を繰り返す中でその願望は薄れ、代わりに安定した毎日を求めるようになっていた。
「もっと自由だったはずだ。なぜ、忘れてしまったのか?」その影は、まるで彼自身の心の叫びのように感じた。
少しずつ、恐れは疑念や好奇心に変わっていった。
「お前は何者だ?」思い切って健太は尋ねる。
影は微かに笑ったようだったが、その笑みは本当に存在したのかはわからなかった。
「お前の影だ。この町で、人々の望みを吸い取ってきた。いつもお前の足元には私がいる。愛しているといってくれ。そうすれば、私の力になる。」
その言葉が響き渡る。
健太は、愛することの恐怖とその影が同じ感情で結びついていることを感じた。
彼は自分が望んでいたものを忘れてしまっただけでなく、その影がその思いを反映していることに気づいた。
「本当に望むのは、成功だけじゃない。自由に生きたい、愛する人と共に笑いたい…」その時、心の中の封印が解けたように思えた。
影は満足そうに見えた。
「それでいい。お前の望みは私のものだ。解放へ向かって進め。」
健太は不思議な感覚に包まれ、同時にすこしの恐怖を感じながらも、深呼吸をした。
影は静かに彼の目の前から消えた。
帰り道、彼はそれまでの疲れを忘れ、笑顔で足取り軽く前へ進み続けた。
迷いは消え、未来への希望がまた彼の心を照らし始めた。
その後、彼は一度もその雑貨屋を見かけることはなかったが、背後に隠れている影を感じることはなかった。
それはいつも彼の心の中に望むものとして、彼を進ませるために寄り添っていたのだ。