『霧の中の約束』

その日は静かな秋の夜だった。
河のほとりに住む健一は、仕事を終えた後の気分転換にと、近くの河原を散策することにした。
秋の風が心地よく、夜の帳が下りるにつれて、次第に周囲は静けさに包まれていく。
しかし、その静けさの中で彼は、どこか異様な雰囲気を感じていた。

目の前に広がるは、一面に霧に包まれた河だった。
霧は幻想的で美しくもあったが、その奥には何か不気味なものを秘めているようにも思えた。
健一は好奇心に駆られ、霧の中に足を踏み入れてみた。

霧の中に入ると、視界は一気に狭くなり、周囲の音が反響するような感覚を覚えた。
そのとき、ふと背後から声が聞こえた。
振り返ると、幼い頃に見たことがある顔がこちらを見つめていた。
それは彼の亡き妹、美咲だった。
彼女は微笑んでおり、その隣には浅く散った花弁が漂っていた。

「お兄ちゃん、こっちに来て」と、彼女の声は優しく響いた。
しかし、友だちとの約束を思い出し、健一はそんな美咲を思い出しながらもその場を立ち去り、再び河を見つめた。
美咲の甘く優しい声は、だが耳から離れなかった。

「健一、待って!」

急に風が強まり、霧が彼を包み込む。
目の前の景色が揺らぎ、まるで次元が歪んでいるかのように、河の水面が銀色に輝き始めた。
目を凝らすと、その中には美咲の姿が映り込んでいた。
彼女は幸せそうに笑っていたが、その表情には何か悲しみが隠れているようにも見えた。
健一は心が締め付けられるような思いに駆られた。

再び、「お兄ちゃん、こっちに来て」と彼女は呼びかける。
健一は一歩踏み出したが、すぐに足が止まった。
妹の元へ行けば、何かが変わってしまう気がした。
彼は心の中で葛藤し続け、踏み出すことができずにいた。

霧が濃くなり、周囲の音が波のように高まっていく。
突如として、健一の耳元に響く声が変わる。
「健一、いつまで待たせるの?」それは確かに美咲の声だったが、どこか切羽詰まった感じが漂っていた。
彼は恐れを抱きつつも、思い切って振り返った。

するとそこには、今まで見たことのない、さらに背後から浮かび上がる姿があった。
美咲が消え、その代わりに現れたのは、彼女とはまるで違う、目をそらしたくなるような惨めな表情をした少女だった。
その幽霊は、彼に向かい不気味に笑いかけた。
「彼女は帰ってこない。あなたもここに留まる運命よ?」

健一は一瞬、絶望に包まれた。
自分を救うために彼女を忘れてしまったのではないかという後悔が押し寄せ、心が折れていくのを感じた。
だが、とっさに彼は振り払うようにその場を後にする決意をした。
美咲の声が聞こえる霧の中から、全力で駆け出した。
彼は川の流れに背を向け、何とか霧の外へと抜け出そうと考えた。

「健一、散らないで」と、霧の中から美咲の声が再び響く。
彼は振り返り、改めて気持ちを伝えた。
「美咲、ごめん。君を忘れたりしない。ただ、もう進まなきゃならないんだ」

その瞬間、霧は渦巻き、すべてが暗闇に包まれた。
彼は意識を失い、目が覚めたとき、河のほとりに立ち尽くしていた。
河は澄んだ水面を持ち、霧も消えていた。
美咲の姿は見えない。
それでも、彼の心には妹との思い出が永遠に残っていた。

「もう、帰るよ」と、小さく呟いた。
彼は霧の中で彼女を待たせることはないのだと、心に決め、ゆっくりと河岸を後にした。

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