『思い出の料理人』

寒い夜、彼女は一人で古びたレストランに入った。
店内は薄暗く、壁にかかった古い写真が時間を忘れさせる。
レストランの名は『思い出の場所』。
陰気な雰囲気が漂い、まるで長い間、誰の手にも触れられなかったかのようだった。

座ったテーブルから見た厨房では、ちらりと影が動くのが見えた。
その影は、あたかも視界の端にいるように、いつも不意に目に入る。
彼女はその影を意識しながら、メニューを開く。
「本日のおすすめは?」と店員に尋ねるも、沈黙しか返ってこなかった。
不安が心をよぎる。

このレストランには、かつての客たちが壊れた心の断片を抱えて訪れると言われている。
彼女もその一人だ。
失恋から立ち直れず、日々が空白のように過ぎていくのを感じていた。
料理を待ちながら、ふと過去の思い出が蘇ってくる。
彼との楽しかった日々、そして最後の別れの瞬間。
鮮明な映像が頭の中で繰り返され、胸が締めつけられる。

突然、厨房から音がした。
舌を噛んだのか、ずっと静かだった店内に彼女の声だけが響く。
心の中で、何か恐ろしい予感がした。
恐怖に駆られた彼女は、料理を求めてキッチンの方へ足を進めた。
すると、そこには老いたシェフが立っていた。
彼の目は無気味に虚ろで、まるで何かを壊すかのように彼女を見つめていた。

「君の思い出は、私が調理する」と、彼は声を低くして言った。
その瞬間、彼女は理解した。
このレストランでは、過去の痛みを料理に変え、提供されるのだと。
彼女は反射的に後ずさり、逃げようとしたが、動けなかった。
思い出の中で彼との幸せな時間を懐かしむ一方、悲しみは増していく。

「私の幸せを、返して」と叫ぶ彼女の声は、厨房の隅まで届いた。
しかし、反響する声の代わりに、彼女の耳には過去の記憶が響いた。
「お前のために、もっと楽しい思い出を作りたい」と、彼の優しい声が聞こえてくる。
そして、一瞬、彼女の心のどこかで彼を許す感情が芽生えた。
ただ、そこにあったのは記憶の断片だけ。

急に厨房の灯りが消え、暗闇に包まれた瞬間、彼女の心が再び脈を打った。
まるで時間が壊れたように、その場の空気が重くなり、彼女を押しつぶすように感じた。
次の瞬間、目の前に彼が現れた。
彼女の心臓が大きく躍動する。
嬉しさと悲しさ、そして壊れた過去を背負った不安が同時に襲い掛かる。

彼に会うことができた喜びが、過去の罪深さを消し去ることはできなかった。
彼女はその思いを抱えたまま、再びレストランを出ることを選んだ。
過去の思い出に縛られ、自分の心を解放するために。
だが、扉を開けた先には、影がたくさん待ち構えていた。
彼女は知っていた、これからも彼らが追いかけてくると。

そのレストランは、今も誰かの悲しみを料理する場所であり続けていた。
心の断片を抱えた人々が次々と訪れ、気付かないうちにまた別れの瞬間を迎える。
彼女は思った。
自分の思い出を壊さなければ先に進めないのだと。
しかし、その苦しみの記憶は消えることなく、永遠に彼女の中に残り続けるだろう。

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