ある静かな村に、犬のたろうが住んでいた。
たろうはいつも飼い主の和子と一緒に過ごし、平穏な日々を送っていた。
村は四方を山に囲まれ、空はいつも青く澄んでいた。
しかし、春のある日、異様な現象が村を襲うこととなる。
その日、たろうはいつも通り和子と散歩に出かけた。
村の外れには大きな鳥居があり、そこから山へ向かう小道が続いていた。
周囲には古い神社があり、村の人々はそこを神聖な場所と敬っていた。
しかし、最近、村の人々は神社周辺で目撃される奇妙な現象について耳にすることが増えていた。
それは、霧が立ち込める中、鳥の鳴き声が絶え間なく響き渡るというものだった。
それだけでなく、鳥の中には不気味な黒い影を背負ったものがいるという噂も広がっていた。
和子は気にせず、たろうを連れて神社へ向かった。
「今日はあそこの鳥居をくぐって、山の方へ行ってみようか」と和子は言った。
たろうは嬉しそうに尻尾を振ったが、心の奥底に不安がひそんでいた。
神社の境内に足を踏み入れると、急に風が吹き荒れ、周囲がざわめき始めた。
鳥居の向こう側には、薄暗い森が広がっており、気がつくと霧が立ち込めてきた。
その中からは、耳慣れない鳥の声が聞こえてきた。
「こっちだ、こっちにおいで」と囁くような声が、たろうの心をつかんだ。
和子は顔を曇らせ、「たろう、行かないで!」と叫んだ。
しかし、たろうはその声に導かれるように、一歩二歩と霧の中へと足を進めてしまった。
まるで、自分の意志ではなく、何かに操られるように。
和子は必死にたろうを呼び止め、後を追った。
森の中に入ると、彼らは次第に迷子になってしまった。
どこを向いても同じような木々が立ち並び、静寂に包まれている。
和子は恐怖で息を呑み、「たろう、どこにいるの?」と叫んだ。
すると、たろうは不安そうに鳴き、彼女の方へ戻ってきた。
その瞬間、周囲の暗闇の中から浮かび上がるように、黒い鳥が現れた。
その鳥は彼らに向かってつぶやいた。
「この森には迷い込んだ者たちがたくさんいる。彼らは永遠にこの闇の中をさまよう。不安を抱える者に、道は与えられないのだ」と。
その声は低く、冷たく、和子の心に震えが走った。
和子は恐怖に駆られ、たろうを守るためにしっかりと抱き寄せた。
「行かないで、私たちは帰るわ」彼女は告げたが、道は消え、霧はますます濃くなるばかりだった。
彼女は焦りながら、振り返り続けた。
「どうする、迷ってしまった。私たちはどうしても帰らなきゃ」と和子が言った瞬間、たろうは嗅ぎ慣れた匂いを感じたのか、前を見つめて吠えた。
和子はその瞬間、「あれは、私たちの村の匂いだ!」と感じた。
たろうの本能に導かれ、彼女はその方向に向かって走り出した。
しばらくして、和子は再び明るい光が見えてくるのを感じた。
たろうも興奮して吠え続け、彼女を励ましている。
二人は恐怖から解放され、一瞬の静寂を感じながら、村へ向かって全速力で突き進んだ。
やがて、霧が晴れ、村の空が広がった。
村に戻った彼らの心には、あの森の恐怖が深く生き続けていた。
噂はやがて消えていくだろうが、心の奥に残るあの声と出会ったことは決して忘れないだろう。
そして、たろうは和子のそばで、かけがえのない存在となった。
彼女は二度と、その森に近づくことはなかった。
闇に迷った者たちは、今もなお、その場所に取り残されているのかもしれない。