ある夏の終わり、東京の片隅にある小さなアパートに引っ越してきた田中雅史は、静かな生活を期待していた。
仕事のストレスや人間関係に疲れ、心の癒しを求めて移り住んだ場所だった。
しかし、雅史の新しい生活は、思いもよらぬ形で幕開けを迎えた。
引っ越し初日の夜、彼はベッドに横たわりながら、遠くから聞こえてくる夜の街の音に耳を傾けていた。
都会の騒音が心地よい反面、どこか不安定な響きも感じた。
ふと、雅史は部屋の隅から微かに聞こえる音に気づいた。
それは、どこかで聞いたことがあるような、何かを引きずるような音だった。
「気のせいか」と思い、彼はそのまま寝ることにした。
しかし、その音は夜が深まるにつれて大きくなり、寝室の隅からまるで誰かがいるかのように感じ始めた。
音は続き、徐々に不安を増幅させるような低いうなり声が混じってきた。
雅史の心は次第に崩れ去るように揺れ、眠れぬ夜が続いた。
知人に相談してみても、誰も相手にしない。
彼の悩みは一方通行で、周りは「お化けなんているわけない」と笑っていた。
自分の感覚を疑い始め、雅史は余計に心が追い詰められた。
毎晩続くその不気味な音は、昼間の静かな生活を蝕むかのように、彼の精神をじわじわと蝕んでいった。
ある日、雅史は仕事帰りにふと気になり、アパートの管理人にその音について聞いてみた。
管理人は一瞬怯えたような表情を見せ、「ああ、あの音のことか。前の住人が、何らかの理由でここを出ていった後、ずっと続いてるんだが…」と小声で答えた。
雅史は興味を抱き、その後の話を聞くことにした。
前の住人は、彼女の名前が「榊原美佳」と言い、仕事のストレスから精神的に追い詰められていたという。
彼女は時折、奇妙な叫び声や囁きをすることがあったらしく、その声は住人たちの不安をさらに掻き立てていた。
最終的に、彼女はこのアパートから姿を消してしまったという。
その話を聞いてから、雅史はふと心に響くものを感じた。
「もしかして、彼女が私に何かを伝えたがっているのでは？」と思い始めた。
彼は決意し、音の正体を探ることにした。
夜、静まりかえったアパートの中で、彼は心を落ち着け、ただじっと耳を澄ませた。
やがて、音が聞こえてきた。
「久しぶりね…」という声が、まるで彼の心に直接響くかのように届く。
その声に導かれ、雅史はある部屋の前に立った。
そこは、美佳が住んでいた部屋だった。
雅史はドアを開け、部屋の中に入った。
薄暗い空間に先ほどの音が渦巻いていた。
彼は恐怖を覚えたが、同時に彼女の悲しみや心の痛みも感じた。
「あなたの気持ちをもっと知りたい」とつぶやくと、突如として部屋の温度が下がり、音は次第に激しくなった。
「癒してほしい」「忘れないで」と、彼女の無念が波のように押し寄せてくる。
雅史はその瞬間、彼女の苦しみを理解した。
人の心は、時に崩れそうなほどに重く、また永遠に解放されることがない場合もある。
その思いを抱えたまま、彼女はこの世に留まっていたのだ。
彼は思いを込めて、彼女の心を受け入れることを誓った。
その夜、雅史は奉納のように彼女に感謝し、自分の思いも伝えた。
「あなたが求めていたこと、一緒に分かち合おう。これからの記憶に、あなたの思いを刻むから、安心して休んでください」。
その言葉と共に、静寂が戻り、心の音が消え去った。
そして、彼は再び平穏な日々を取り戻した。
永遠に抱えた思いは、彼の心の中で生き続けるだろう。
日常の中で、かつての痛みや悲しみを忘れないために、彼は新たな道を歩み始めた。
