彼の名前は高橋真一。
真一は毎晩遅くまで残業をして、最寄り駅から自宅までの道を歩くのが日課だった。
駅の周囲は静まり返り、暗がりの中でポツリと残された街灯の明かりだけが彼の道を照らしていた。
ある晩、真一はいつものように駅に向かって歩いていると、駅のプラットフォームから不気味な音が聞こえてきた。
それは、何かがかすかに「り、り」と繰り返すような音だった。
彼は立ち止まり、その音の正体を探ろうとしたが、どこから聞こえてくるのか分からず、少し不気味な気分になっていた。
周りには誰もいない。
真一は一瞬、音がかすかに響く中で、誰かがいるのではないかと感じた。
しかし、目を凝らしても影さえ見えない。
気のせいだろうかと笑い飛ばし、彼は再び足を進めた。
その瞬間、音が止んだ。
また不気味な静けさが周囲を包み込む。
心が確かでないまま、真一は駅のホームへと足を踏み入れた。
電車が来るまでの数分間、彼は周囲の様子を伺った。
しかし、その時、ふと耳に飛び込んできたのは再び「り、り」という声。
それは明確に耳元に響いているように感じた。
「これは何だ?」真一は思った。
彼は静かに振り返ったが、そこには誰もいなかった。
不気味な体験に胸がざわめく。
真一の心は不安に包まれてくるが、電車が近づいてくる音も聞こえてくる。
彼はそのまま待つことにした。
電車がプラットフォームに入ってくると、彼は立ち上がり、乗り込む準備をした。
しかし、車両が停まると、彼は思わず動きを止めた。
車両内は薄暗く、乗客は誰もいなかった。
その瞬間、再び「り、り」という音が近づいてくるのを感じた。
今度は明確に彼のすぐ後ろから聞こえた。
恐怖に駆られ、彼は振り返った。
今度こそ人影が見えた。
女の子のような小柄な存在が、彼の視界に映った。
彼女は振り向くことなく、ただ「り、り」と繰り返す声を発していた。
彼女の後ろ姿は何も持っていないようで、ただ薄い影のようにしか見えなかった。
「お、おい、君はどうしたんだ?」真一は声をかけてみたが、彼女は何の反応も示さなかった。
混乱しながらも、声をかけることにためらいを覚えた。
その時、電車が出発の合図を告げた。
真一は思わずそのまま乗り込むことを決め、振り返らずに前に進んだ。
しかし、その瞬間、再び「り」という声が彼の耳に響いた。
それはまるで彼を引き留めるように聞こえた。
電車の中でのった瞬間、真一は背筋が凍りつく思いをした。
周囲の人々がどこに行ってしまったのか、次々と顔をのぞかせた顔はすべてぼやけていて、彼の知っている世界とはまったく違った。
「り、り」と音は続いていた。
真一は恐怖で心が締め付けられるような思いをしながら、視界の中に広がる不気味な街並みを眺めた。
電車はどこへ向かっているのか、一向に分からない。
その瞬間、真一は彼女の声を思い出した。
それは自分の心を求める声だった。
「おじいちゃんのところに帰りたい…」彼は一気にその思いがこみ上げてきた。
このままでは戻れない、と心に叩きこまれる思いがした。
彼は必死になって電車から降りる瞬間を待った。
果たして、再び「り、り」という声が近づいてきたと同時に、彼は踏み出した。
乗客たちはみな消え、彼だけがホームに転げ落ちた。
恐怖心が一瞬崩れ去る。
息を切らしながら振り返る真一は、今まで聞こえていた「り」という音が新たな音に変わっているのに気づいた。
それは、彼の心の声であることを知っていた。
彼はもう振り返れない。
自分の心の奥底に長く眠っていた記憶を持ち去ることはできないと思った。
人々の紛れる音も、もう彼にとっては「り」のままであったのだ。