小さな町に、古びた鈴木家があった。
この家は、かつては賑やかで幸せな家庭が暮らしていたが、今は廃墟のように放置され、周囲の人々に恐れられていた。
その理由は、鈴木家の隣に住む田中という若者のせいだった。
田中は、音楽家になる夢を抱いていたものの、音に対する感受性が異常に強かった。
彼はいつも音を求めて旅に出るが、帰ってくるたびにどこか壊れたような目つきになっていた。
町の人たちは彼を避け、彼が鈴木家で何かをしているのではないかと噂していた。
ある晩、田中は再び鈴木家に忍び込んだ。
家の中は静まり返り、夜の闇の中、彼の耳には微かに不思議な音が響いていた。
それはまるで、かつての鈴木家の幸福な日々を収めた音楽のようだった。
しかし、その音はどこからともなく聞こえてくるのではなく、彼の頭の中から溢れ出してくるものであった。
田中は、その音に引き寄せられるように廃墟に足を進めた。
どこからともなく聞こえる声に耳を傾けると、不思議な間と共に彼はその家の空間に取り込まれていくのを感じた。
周囲の風景が揺らぎ、鈴木家の中が一瞬、かつての家族の姿で満たされると、田中は驚きと興奮を覚えた。
その瞬間、彼は間隔を失い、自分が何もかも壊してしまったような罪悪感に苛まれた。
そこはかつての鈴木家の幸せが詰まった空間であり、自分がこの家に戻ってきたことによって再び彼らの記憶を容赦なく引き裂いてしまうのではないかと感じた。
時間が経つにつれ、音は次第に強まっていった。
そして、その音は明確なメロディーとして浮かび上がり、田中の意識を掴み取った。
「戻れ、戻れ」と囁くように響き続けた。
その声には、鈴木家の家族たちが過ごした日々の記憶が詰まっていた。
田中はその音を求めて次第にそのメロディーに没入した。
彼の心の奥から自分が憧れていた家族のぬくもりが蘇り、彼はしばらくの間、時間を忘れた。
しかし、そのうちに恐怖が彼を襲った。
音楽が彼の心を支配し始め、彼が戻りたくても戻れない間に存在を消されてしまうのではないかと恐れた。
その瞬間、音が突如として止んだ。
家の中は静まり返り、田中は迷子になった。
それと同時に、鈴木家の記憶が彼の中で壊れていくのを感じた。
彼の求めた音が消えたことで、彼の心の安らぎも失われたのだ。
慌てて田中は廃墟を飛び出し、自分を取り戻そうと必死になった。
ここから離れれば、鈴木家の音から逃れることができるはずだった。
だが、彼の足はその場から動かず、周囲には鈴木家の家族の影が現れ、彼を見つめていた。
「戻るな」とその影たちが囁く。
否応なく、田中は彼らの記憶の中に引き戻されていく。
鈴木家の幸福な音楽が再び流れ、そのメロディーは彼の存在を曖昧にし、彼の心を弄んでいた。
田中は最後の力を振り絞り、その場から逃れることを決意した。
耳を塞ぎ、目を閉じ、力強く一歩前へ踏み出した。
その瞬間、彼は家族の愛と音楽の記憶から解放され、再び現実の世界に戻ってくることができた。
しかし、鈴木家の音は彼の心の奥底に残り続けた。
それは決して消え去ることのない、彼にとっての儚い間の体験となったのだ。