深夜、とうとう彼女は覚悟を決めた。
大きな展示会場は、展示物の影に覆われ、薄暗い空間に不気味な雰囲気が漂っている。
美術大学の学生、佐藤花子は、芸術祭を控え、作品の搬入を行うために、誰もいない展の中に一人で足を踏み入れた。
彼女の持っているのは、自身の作品であるオブジェ。
花子は特に音に着目した表現をしており、その作品はふとした瞬間、周囲の音を拾い、それを変化させて返すという独特なものだった。
彼女はその作品を、自分の芸術の道を見つけるための第一歩だと信じていた。
だが、深夜の静けさの中で、彼女の心の奥には不安が渦巻いていた。
搬入を終え、作品を設置しようとしたとき、彼女は不意に展示会場の奥から不気味な音が聞こえてくるのに気づいた。
低く唸るような音、耳障りな響き。
何かがうめくようなその音は、次第に大きく、そして近づいてくる気配がした。
心臓が高鳴る。
花子は周囲を見渡したが、誰もいない。
展示物の陰になっている場所が暗く、何も見えない。
音は変わらず続き、まるで誰かがそこにいるかのように感じられた。
果たして彼女は、この空間で何かが彼女を呼んでいるのか。
その瞬間、音が急に鳴り止んだ。
静寂が戻る。
しかし、静けさの中に妙な違和感が。
足元に目をやると、彼女のオブジェが微かに揺れていた。
彼女は驚いた。
オブジェの動きに合わせ、周囲の空気が変わっていくような感覚があった。
音は消えても、この場所には何かが残っている。
彼女は思わず後退った。
そのとき、再び低い声が響いた。
「おいで、花子…」と。
名前を呼ばれた瞬間、恐怖が彼女の心を締め付けた。
振り返る勇気もなく、ただ逃げることだけを考えた。
しかし、音は近づき、彼女の心に何かを訴えかけるかのように続いていた。
「落ち着いて、私の声を聞いて」その声は、まるで空気のように優しく響いた。
花子は動けなくなり、身動きもできず、その場に立ち尽くしていた。
その瞬間、音が彼女の意識の中に侵入してくる。
彼女が逃げようとするたびに、その音は圧力を増していった。
「私の中に融け込んで、感じて」と。
その言葉は、なぜか彼女の心を揺さぶる。
音に囚われ、逃げることができなくなった彼女はそのまま立ち尽くし、心の奥底に潜む感情が浮き彫りになっていくのを感じた。
彼女は自分の不器用さ、自分を知られることへの恐れ、そして自身を表現することへの葛藤にさいなまれていた。
その時、突然、展の遠くからもう一度音が響いた。
今度は力強く、同時に耳をつんざくような悲鳴に変わった。
彼女の心は恐怖でいっぱいになったが、同時にその音が彼女自身の心の奥の叫びになっていることに気づく。
彼女の過去や過ち、周囲の期待から解放されたいという願いが、その音に表れていた。
花子はとうとうその場を踏み出した。
自らの内面と向き合い、音を拒むのではなく受け入れることを決意した。
響き続ける音に耳を傾け、彼女は一歩ずつ、その音の中に融け込んでいった。
心の中に広がる不安や恐れを抱えながらも、彼女は前に進む勇気を見出した。
展示会場の端で、彼女のオブジェが光を放ち、音が一体になって彼女を包み込む。
それはまるで彼女が自らの過去を抱きしめ、未来に踏み出す瞬間を示すようだった。
彼女は恐れを乗り越え、自らの道を歩み始めたのだ。
音はやがて遠ざかり、静けさが戻る。
しかし、その静けさは、ただの無音ではなく、彼女の心の中に新しい響きが加わったことを示していた。
葉の落ちるような柔らかな音、彼女だけの道への決断の音だ。
彼女はもう、迷わない。