田中健一は、大学を卒業し、夢に描いていた町の小さな出版社で働き始めた。
そこは静かな住宅街に位置し、周囲には古い木々や小さな公園が点在していた。
しかし、何よりも印象的だったのは、出版社の奥に佇む古びた物置だった。
数十年は使われていない様子で、錆びた扉が微かな音を立てて揺れていた。
ある晩、仕事を終えた健一は、気になっていた物置を覗いてみることに決めた。
明かりが乏しく、薄暗いその中には、ほこりまみれの本や雑貨、そして一足の古い靴が眠っていた。
靴は一つだけで、明らかに履き慣れたものであった。
健一はその靴に魅了され、何か感じるものがあった。
自分の周りに漂う不気味さに気づきながらも、指が自然と靴に伸びた。
その日以来、健一の生活には奇妙な現象が現れ始めた。
夜、眠りにつくと、夢の中で靴が動いているのを見た。
彼は時にその靴に引き寄せられ、時に拒絶される感覚を味わった。
夢から醒めるたびに、自身の足に何かが触れているような感覚があったが、それが何なのか分からなかった。
日が経つにつれ、健一は足元に何か異常なものが忍び寄っていることを感じ始めた。
例えば、歩くときに足音が微かに重くなり、そのたびに何かの存在が自分を引き留めようとするのだ。
周りの友人たちにこのことを話しても、単なる精神的疲労だと言われるだけだった。
ある晩、友人と居酒屋に行った帰り道、健一は不気味な感覚に襲われた。
歩くたびに足が重く感じ、周囲の音が次第に消えていった。
そのとき、ふとした瞬間に思い出したのは、物置の靴だった。
果たして、あの靴の持ち主は誰なのか?その靴は一体何を求めているのか。
その夜、健一は決意した。
靴の持ち主を探ることにしたのだ。
翌日、出版社の古い書庫を調べ始めた。
そこで見つけたのは、戦後に発行された古い雑誌の切り抜きだった。
その中には、町に住む少女が行方不明になったという記事が載っていた。
彼女の名前は「美紀」だった。
記事には、美紀の最期を知る人は少なく、その靴だけが彼女の存在を今も語るかのように静かに佇んでいるとあった。
彼女が無表情に微笑む写真の中、確かにたった一足の靴が写っていた。
健一は言葉もなくその写真を見つめ、急に胸が締め付けられる感覚に襲われた。
美紀の靴は、彼女の足にフィットし、彼女の一部だったのだ。
健一は、物置に戻り、靴を手に取った。
その瞬間、彼の足元に何かが触れた。
驚くと同時に、意志のような力が彼を引き寄せる。
彼は靴を手放すことなく、不気味な感覚に抗おうとしたが、次第にその力が強くなってきた。
彼は足を引きずり、そのまま靴を履いてしまった。
それからというもの、健一の生活は一変した。
彼の足は、不気味に感じる靴と完全に一体化し、その影響を受けるようになった。
どこに行くにも靴を履いているはずなのに、彼には見覚えのない場所へと導かれる感覚があった。
彼の心が美紀に寄り添うにつれ、その足元に次第に彼女の思念が宿るようになったのだ。
健一は、彼女の心の声を少しずつ聞くような気がしていた。
彼女は、自分を忘れられた存在として受け入れられないことに苦しんでいたのだと。
そして、彼女は彼に、足を持つ者として復讐を試みていたのだ。
一歩、一歩、健一は静かに自分の足元に浸透してくる美紀の思念を感じた。
彼はそれに取り込まれ、次第にどこか別の世界に引き込まれてしまった。
彼はもう健一ではなく、美紀の思いを背負った存在として、この街の夜の中に永遠に彷徨い続ける運命を受け入れていた。