ある夜、静まり返った屋の中で、一人の若者、健太は自分の部屋で読書をしていた。
彼は夜のひとときを好み、特に薄暗い明かりの中で物語の世界に浸るのが好きだった。
しかし、その日は普段と違っていた。
耳を澄ましても、家の中の音は全く聞こえない。
いつもならば、近くの部屋から家族の声が聞こえてくるはずなのに、まるで誰もいないかのようだった。
心の中で、無意識に不安が広がっていく。
特に寒気を感じたわけではないが、何かが違うと感じる。
そんな気持ちになりながら、彼はページをめくり続けた。
そのときだった。
ドアが静かに開く音が聞こえた。
驚いて振り返ると、部屋の片隅に薄暗い影が見えた。
それはまるで人の形をしているが、顔は暗闇に隠れていてはっきりしない。
「誰かいるのか？」と声を掛けても、返事はない。
ただ、影は静かに彼に向かって進んできた。
健太の心臓は早鐘のように打ち始め、逃げ出したい衝動が波のように押し寄せる。
だが、動けなかった。
なぜかその場から離れることができないでいた。
「義を果たさねばならない」と、影は低い声で囁いた。
それは健太にとって、まるで誰かの声をそのまま受け継いだような響きがあった。
影の存在は次第に鮮明になり、その正体が露わになった。
彼は、健太の父の亡霊だった。
「お父さん…」健太は息を呑んだ。
父は生前、正直で義理堅い人物だった。
亡くなったのは数年前のこと。
適度な距離で接していたが、その存在を失ったことは、彼にとって大きな痛手だった。
父の亡霊は、彼の前に立ち、無言でじっと彼を見つめていた。
「義を果たすというのは、なかなか難しいことだ。時に、他者のために立ち上がることが求められる。しかし、果たせない者には、思いを託されることもある」と父は再び囁いた。
その言葉の意味が直感的に理解できた。
彼は今、大学で学んでいることを理由に、家族とのつながりを蔑ろにしていた。
忙しさを理由に、父の思い出にさえ触れずにいた。
影はそのことを知っていたのだ。
父の存在が、自身の心を見透かすように感じられる。
「私がいないことで、たくさんの人が助けを求めていたのに、あなたはそれを無視している。私の思い、届かせたいのだ」と言うと、影はさらに近づいてきた。
無言だった父が、自らの存在を彼に訴えかけていた。
そのとき、健太は目の前にある現実を直視する必要があることを感じた。
彼の周りには、いつも助けを必要とする人々がいたのではないか。
自分の心が義を欠いていることに気づかされた今、彼には何ができるのかを考え始めた。
「私は、これからもっと周りに気を配ります。あなたの教えを胸に、助けが必要な人に手を差し伸べます」と健太は心の底から誓った。
すると、影は少し笑ったように見えた。
その瞬間、彼の前から亡霊はゆっくりと消えていき、明るさが部屋の中に戻ってきた。
健太はその夜、自分がいつも感じていた義務感と責任について再確認することになった。
そして、家族や友人との絆を大切にすることの重要性を思い知った。
ふとした瞬間に生まれたその経験は、彼の心を深く動かし、今後の歩みへと繋がっていくことになる。
