「霧の宿命」

彼の名前は健太。
ある雨の日、彼は友人との約束をすっぽかし、一人で静かな山道を歩いていた。
重たく垂れ込めた雲からは、しとしとと雨が降り続き、視界は次第に曇っていく。
そして、その雨に包まれた道の先には、いつもとは違う霧が立ち込めていた。

「今日は不思議な天気だな」と健太はつぶやく。
彼はその霧に、どこか不気味さを感じながらも好奇心をそそられた。
霧の中には意識のない人々が歩いているように見えた。
しかし、彼らの顔は見えない。
まるで彼らも、雨と霧に飲み込まれているようだった。

地面が泥濘んでいるせいで、健太ははっきりとした足元を取られながら進んでいた。
すると、ふと、目の前に現れたのは一人の古びた衣をまとった女性だった。
彼女の顔は真っ白で、無表情のまま彼をじっと見つめている。
健太はその光景に身体が凍りつき、思わず立ちすくんだ。

「助けて…」彼女の口が動いた。
声はかすかで、まるで風に乗って耳に届くかのようだった。
だが、彼女の言葉はそれだけではなかった。
「この雨の中に、犠牲を捧げて…さもないと、私はあなたを連れて行く。」

その言葉が彼の心を揺さぶり、目の前の女性の存在がどんどん現実味を帯びてきた。
まるで彼女の目が彼の内心を見透かしているように感じられ、恐怖が湧き上がってきた。
彼はその場から逃げ出そうとしたが、足は動かない。
霧に包まれたこの道から逃れることができないような強い引力を感じていた。

「何か変わったことがあった…何を捧げるの?」彼は思わず訊ねた。
彼女の表情は変わらず、ただ淡々と答える。
「あなたが持つ全ての中で、一番大切なものを、私に捧げてほしい。」

健太は混乱した。
大切なものは、罪悪感を消し去るために守っている心の奥の後悔だった。
それを手放すのが怖い。
しかし、その怯えも次第に薄れていく。
雨が彼の心に浸み込み、重苦しい思考が解け始めた。
心が晴れやかになるほどではないが、霧の中で迷っている自分を少しだけ冷静に見つめ直せるようになった。

「私の後悔を捧げる、と言ったらどうなる?」彼は心の底から友人たちを思い返した。
あの日、一緒に過ごすはずだった彼らをすっぽかして、ここにいるのだ。
彼らを想う気持ちが、再び鮮やかに浮かび上がる。
健太は彼女に向かって叫んだ。
「私の後悔を捧げる、さあ、どうか私を釈放してくれ!」

その瞬間、霧が少しだけ晴れ、冷たい雨も途絶えた。
女性は静かに微笑みながら頷く。
「お前は真実を選んだ。終わりは始まりを意味する。」霧の中で、赤に染まった彼女の手が伸び、その瞬間、雨は激しさを増し、周囲の景色が歪み始めた。
彼女の姿も、何かの儀式が終わったように消えていく。

その後、健太は再び意識を失った。
目が覚めると、彼は自分の部屋のベッドの上に寝ていた。
外では雨が優しく降り続き、緑の匂いが漂っている。
彼は体が軽くなったように感じ、心もスーッとした。
何が起きたのか分からないが、何かが彼の心の奥深くから解放された気がした。

その日から、不思議なことに、健太はあの日の後悔を振り返らなくなった。
友人たちの元に戻り、日常に戻る中で、彼は自分に与えられた新たな運命をしっかりと受け入れ、前に進んでいく決意を固めた。
しかし、深夜、窓の外に人影が見えた時、彼は少なからず不安を覚えた。
あの女性が再び現れるのではないかと思うと、心の奥がざわめいた。

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