「霧の中の約束」

朝霧の立ち込めるある冬の朝、東京都心から少し離れた郊外にある静かな町で、官(いちまる)という青年がいた。
彼は役所の職員として真面目に働いていたが、どこか寂しさを抱えているような表情をしていた。
そんな官は、町の人々のために尽力する一方、自らの悩みを言葉にすることは決してなかった。

ある日、役所の帰りに官は、森林の奥にあるという古い神社のことを思い出した。
実は、小さい頃両親に連れられて行ったその神社の周りには、何か不思議な力が宿っていると噂されていた。
彼は好奇心からその神社を訪れることに決めた。
神社に着くと、霧の中から古びた鳥居が姿を現した。
官はそのまま奥へと進んでいった。

なるべく静かに足を運び、神社の境内に入ると、彼の心に降りかかる重い空気を感じた。
そこには祠があり、周りには誰もいなかった。
そして、彼は突然耳元で誰かに呼ばれたような気がした。
「帰ってきたのね。」

官は驚き振り向いたが、何も見えなかった。
不安と驚きで心拍数が上がり、その場から動けなくなってしまった。
しかし、もう一度耳元で聞こえた声は優しく、懐かしい響きを持っていた。
「あなたの記憶を取り戻してあげる。」

その瞬間、官は小さい頃の出来事を一瞬で思い出した。
両親が自分を無邪気に笑わせてくれた日々、もっとも大切な人たちとの思い出が次々と浮かび上がってきた。
しかし、同時に記憶の奥底には、両親を失った悲しみや寂しさが押し寄せてきた。

官の心に混ざる感情は、今まで忘れようとしていた苦痛だった。
涙が自然と頬を伝い、何か大切なものを思い出させる声に応えた。
だが、この無情な運命を恨む気持ちが溢れていたとき、再び声が聞こえた。
「私があなたを助ける。過去の傷を癒やすために。」

官はたじろぎながらも、その声に引き寄せられた。
「あなたは誰ですか?」と尋ねると、声は静かに答えた。
「私は、あなたの記憶の中に宿るもの。あなたの思い出と一緒に存在してきた。」

彼はその不思議な存在に導かれるまま、深い森の奥へと進んでいった。
道はどんどん狭くなり、周囲にわだかまりと重苦しさを感じられるようになっていった。
彼は心の奥にしまっていた感情を吐き出すように声を上げた。
「もう嫌だ!自分を取り戻したい!」

その時、彼の目の前に不意に現れた影。
それは彼の両親の姿をしていた。
彼は驚きのあまり、後ずさりしてしまった。
両親は温かい微笑みを浮かべ、彼の側に寄り添った。
「私たちは常にあなたのそばにいるわ。悲しみに囚われずに前に進んで欲しいの。」

官は、彼が失ったものの重さを感じながら、両親に手を伸ばす。
「あなたたちと一緒にいたい…」言葉がうまく出てこなかった。
すると、両親の姿は霧の中に溶けていく。
「私たちの愛は永遠だ。あなたを解放するために、あなた自身を見つめ直すことが大切よ」と、最後の言葉が響いた。

官はその瞬間、森の中に広がる美しい光景に包まれ、涙を流しながら自分の心の中で感情が解き放たれるのを感じた。
心の深い場所から、これまでの苦痛が少しずつ薄れていくのを味わった。
彼は自分が二度とあの日の思い出に捕らわれず、新しい未来に向かって歩み始める決意を固めた。

神社を後にし、官は少しずつ日常に戻っていった。
影が薄くなるまで両親の声を心の中で抱きしめ、「忘れないよ」という誓いを立てた。
彼にとって、過去は今や彼を形作る一部であり、彼はその記憶を生きる力として受け入れることができた。

タイトルとURLをコピーしました