「霧の中の正界」

ある寂れたバス停での出来事だった。
主人公の佐藤は、仕事帰りに終電を逃してしまい、行き先のないまま夜の街を彷徨っていた。
周囲には人影も少なく、どこか不気味な雰囲気が漂っていた。
やがて彼は目の前に朽ちかけたバス停を見つけ、疲れた体を休めるためにそこに腰を下ろした。

バス停には一つのベンチがあり、その隣には小さな掲示板が立っていた。
しかし、その掲示板には何も告知が掲示されていなかった。
佐藤は不安に思ったが、待つしかない。
しばらく静寂が続いた後、バスが近づく音が聞こえてきた。
彼は注意深く耳を澄ませた。
そのバスは奇妙な形をしていて、どこか古めかしさを感じさせた。

バスが止まった瞬間、ドアがゆっくりと開き、運転手が顔を覗かせた。
彼の表情は無表情で、薄暗い車内から微かに光るものが見えた。
佐藤は不安を感じつつも、運転手が「お乗りください」と言うのを聞き、思い切って乗り込むことにした。
運転手は黙って座席に戻り、バスは静かに発車した。

走り出したバスの中には、数人の乗客がいるようだった。
しかし、その顔はぼやけていて、何一つ詳細がわからなかった。
佐藤は彼らの視線を気にしながら、次第に不安に包まれていった。
バスはどこへ向かっているのか、そしてこの乗客たちが一体何者なのか。
しかし、運転手は黙ったまま運転し続けていた。

しばらくすると、突然、バスは停まり、運転手が後ろを振り向いて言った。
「ここで降りる準備をしてください。」佐藤は驚いて目を見開いた。
何が起こったのか理解できなかったが、周囲を見ると他の乗客たちも不安そうな顔で運転手の方を見ていた。

ドアが開かれ、外に広がる光景が目に入る。
そこは一面の霧に包まれた草原だった。
足元には古びた標識があり、「正界行き」と書かれていた。
佐藤の心に恐怖が広がった。
「正界って、一体何のことだ?」彼は思った。
しかし、体が勝手に動き、バスから降りることになってしまった。

霧の中には人々の声が微かに聞こえてくる。
それも親しみのある声だ。
「佐藤、こっちだよ。」振り向くと、そこにはかつて愛していた密の姿が立っていた。
彼女は優しい笑顔を浮かべて手招きをしている。
あまりの驚きに佐藤は声を失った。

「ここが正界だよ。」密が言った。
その言葉を聞いた瞬間、なぜか心が温かくなるのを感じた。
彼女の近くに行きたい、一緒にいたいと思った。
それが正しい選択のように思えた。
しかし、バスに乗っていた他の乗客たちが一斉に彼に向かって叫びかけた。
「戻れ!それは運命に囚われることになる!」その声は彼の心を揺さぶった。

佐藤は密の方を見て、彼女の手を取ろうとしたが、瞬間、霧が濃くなり、彼女の姿がぼやけてしまった。
「待ってくれ、密!」叫ぶも、彼女は消え去り、再び周囲の霧だけが残った。
その時、かすかな笑い声が響いた。
「選んだのはお前だ、正界の扉を開けてしまったお前自身なんだから。」

恐怖と悲しみの中で、佐藤は一瞬のうちに理解した。
彼にとって密は、ただの過去の幻影であり、戻ることができない存在なのだ。
この正界は、彼が手放したくなかった思い出の集合体だった。
彼の心の選択が、今後の運命を決めてしまっていた。

その後、彼は再びバスの中に戻され、運転手は無言のまま運転を続けた。
周りにはもう誰もいなかった。
佐藤は心の奥で沸き起こる後悔と共に、どこか孤独な帰路を歩むしかなかった。
運命に飲み込まれたあの日から、彼は永遠にその正界の囚人として存在することになったのであった。

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