霧深い山の中、山道を進む一人の登山者がいた。
彼の名は健二。
健二はアウトドアが大好きで、週末になると必ずどこかの山を訪れていた。
この日も新たな山に挑戦するため、早朝から出発していたが、天候は次第に怪しくなり、濃い霧が山を覆ってきていた。
「まさか、こんなに霧が出るとは…」健二は心の中でつぶやいた。
確かに天気予報はあまり良くはなかったが、ここまで視界が悪くなるとは思ってもみなかった。
そのまま進むのが不安になり、しばらく立ち止まることにした。
周囲は静まり返り、風の音も聞こえない。
霧がさらに濃くなるにつれて、健二は少し気分が悪くなってきた。
その瞬間、足元に何かが触れた。
驚いて振り返ると、そこには誰もいなかったが、どこからともなく「助けて…」という声が聞こえた。
健二は一瞬、自分の耳を疑った。
霧の中に人の気配があるのだろうか。
あっちの方向だろうか、と声の方に足を向ける。
しかし、周囲はただ霧に包まれているだけで、目の前に何かがあるわけではなかった。
「誰かいるのか?」健二は問いかけたが、霧の中に反響する自分の声だけが返ってきた。
彼は再び歩き出し、霧をかき分けるように進んでいった。
心の奥に巣食う不安が次第に大きくなり、再び声が響く。
「助けて…」それは少しずつ近づいてくるように感じた。
「おい、どこにいるんだ?」健二は焦りを感じ、駆け出した。
付いてくるその声は、冷たく、どこか哀しげだった。
「健二、こっちだよ…」その声にはどこか知っているような響きがあった。
自分の名前を呼ぶ声に、彼は一瞬立ち止まった。
「どういうことだ?誰が俺を知っている?」全身が寒気に包まれる中、霧の中に目を凝らすと、白い影がちらりと見えた。
その影に惹き寄せられるように、健二は足を進める。
影は人の形をしていた。
間違いなく人間だった。
しかし、近づくにつれてその姿はぼやけていく。
「お願い…助けて…」影は懇願するように叫んだ。
健二は思わず立ち止まり、心の中で何かが触れるような感覚を覚えた。
「助けて、どこに?」自身の声は震えていた。
影はゆっくりと振り返り、その顔を見ることができる距離に来た瞬間、彼の心は凍りついた。
その顔は無表情で、目は虚ろ。
まるで命を失った者のようだった。
影の存在は、確かに人間だったが、彼女はどこか異質で、そこに生きている気配が感じられなかった。
「ここから出て行きたいの?それとも、私を助けてもらいたいの?」声は静かだが、どこか悲しみがにじんでいた。
健二は言葉を失った。
その場から逃げ出したい思いが強く、彼は後ろに下がろうとしたが、影は急にこちらに近づいてきた。
「助けて…」その声は今度は明確に響いたが、同時に彼の心に波紋を広げた。
健二は混乱した。
これは一体何なのか。
どこか別の次元からの呼びかけなのだろうか。
霧が一層濃くなり、目の前の影は一瞬にして消えた。
それでも、彼女の声は耳の奥に響き続けていた。
「迷っているのね…」霧の中に自分が迷っていることを実感し、健二は恐怖に駆られた。
そして気づけば、あたりは全くの無音になっていた。
彼は気づくと、その場で立ち尽くしていた。
「どうすればいい?」心の中で叫びに近い思いを叫んだ。
すると、周囲に再び音が響き渡り始める。
「助けて…」その声は消えたが、健二は振り向くことができなかった。
彼の心の中には、誰かの助けを求める声が残り続けていた。
方向感覚を失った健二は、山の奥深くへと迷い込み、ただ霧の中で彷徨い続けた。
誰も助けに来てはくれない。
人を求め、恐れおののく中で、囁きは消えずに彼の心に焼き付いていた。
彼は、霧が深くなればなるほど、自分の存在が薄れていくのを感じていた。
その後、健二が見つかることはなかった。
彼の足跡は霧に吸い込まれて消え、山は再び静寂に包まれた。
霧の中で迷い続ける者の声として、彼の存在は永遠に山に残るのだった。