夏の終わり、風に涼しさを感じ始めた頃、健太は友人の翔太と共に、北海道の羽田町にある霧深い森を訪れた。
彼らは肝試しをするのが目的だったが、実のところ、森の奥に伝わる「後ろを振り返るな」という言い伝えに興味をそそられていた。
その日は、朝から晴天であったが、午後になって急に雲が立ち込め、視界を阻むような濃い霧が森を包み始めた。
辺りは静まり返り、二人は心なしか不安を感じた。
健太が「この霧、すごいな」と言うと、翔太は「逆に雰囲気があっていいじゃん」と笑ったが、その表情には微妙な不安が垣間見えた。
彼らは霧の中を進んでいくと、木々の隙間から月明かりが漏れ、何とも言えない幻想的な景色が広がっていた。
しかし、そこに漂う静寂が、逆に胸を締め付けるのを感じた。
健太はふと、「この森、ほんとうに不気味だな」と言った。
この言葉は翔太にとっても同じ思いだったようで、彼は深く息を吐いた。
突然、健太の耳に微かな声が届いた。
「後ろを振り返るな。」それはどこからともなく聞こえてきた声だった。
彼は驚いて翔太の方を見ると、翔太の表情は青ざめていた。
「今、何か聞こえなかったか?」健太が問いかけると、翔太は「いや、何も…」と言いながらも、その目は不安を秘めていた。
二人の息が次第に荒くなり、彼らは気持ちを落ち着けるために再び歩き始めた。
だが、さっきの奇妙な声が頭から離れない。
周囲の木々が、まるで彼らを見下ろしているかのように揺れている気がした。
「さ、さっきの声は本当に気にしなくていいよ」と健太は言ったが、翔太は何かに引き寄せられるように、顔をそちらに向けると、それと同時に健太も振り返ってしまった。
その瞬間、凍りついた。
霧の中から浮かび上がる女性の姿があった。
髪は長く乱れ、白い服をまとった彼女は、彼らに向かって無表情で立っていた。
「後ろを振り返るな。」その瞬間、彼女が口を動かし、言葉が響いてきた。
それが生々しい恐怖となり、心に直接突き刺さるようだった。
翔太はパニックになり、後ずさりしようとしたが、異様に重たい足が動かなかった。
健太も、恐怖に押しつぶされるような感覚に包まれていた。
「行こう、今すぐ!」健太が翔太を引っ張ると、二人は急いでその場を離れた。
霧が濃く、視界が次第に不明瞭になっていく。
それでも必死に走り続けた。
彼らは「振り返るな」と心の中で繰り返し唱え、後ろから迫る冷たい息を感じながら逃げた。
森の中で数度振り返りそうになったが、その度に健太が「まだ振り向かないで!」と声を上げ、翔太を引き寄せた。
ようやく森を抜け出し、明るい街灯の下にたどり着いた瞬間、二人はほっと息をついた。
しかし、振り返ることで彼女が本当に消えてしまったのか、視界に入らずとも二人の心に重くのしかかるような不安は消えなかった。
健太はまだ、あの女性の無表情が頭から離れなかった。
あれは何だったのか、自分たちがしたことについてどうすればよいのか。
その後、何度もこの出来事を思い返したが、いつしかその霧深い森の話は友人の間でも語られることはなくなり、二人はそれぞれの生活に戻っていった。
だが、時折思い出す度に、耳元で響く声に耳を貸しそうになりながらも、決して振り返らないことを心に誓っていた。