霧深い山里には、昔から言い伝えられる奇妙な伝説があった。
人々はその伝説を恐れ、決して夜遅くに外を出歩こうとはしなかった。
ある晩、大学生の佐藤健一は友人たちと肝試しをすることに決めた。
普段から好奇心旺盛な彼は、都市伝説に興味を持ち、この「霧の里」に足を運ぶことにしたのだ。
友人の中には、そういったものを信じない者もいたが、健一の熱意に押されて参加することになった。
夜の帳が降りると、仲間たちは目を光らせながら、霧に包まれた山道を進んでいった。
周囲を覆う霧は次第に濃くなり、木々の間から漏れる月明かりは一層の不気味さを醸し出していた。
彼らは途中で、「この霧の中では放されてしまうものがいる」と言う言い伝えを思い出し、ぎこちない笑い声を上げた。
「大丈夫だよ、ただの伝説だって」と友人の中の一人、田中が言う。
健一はその言葉に心を慰められたが、薄気味悪さは消えなかった。
彼の頭の中には、霧の中で放たれた何かが現れる予感が渦巻いていた。
彼らが山の奥深くに進むにつれて、周囲の静寂が強まる。
まるで、時間が止まったかのようだった。
足元の葉が擦れる音すら、霧の中では消え入りそうだった。
そして、一行は突然、不気味な霧の渦に遭遇した。
それはどこからともなく湧き上がるもので、まるで生き物のようにうねっていた。
「健一、行こうよ!」田中が叫ぶ。
しかし、健一は凍りついて動けなかった。
彼の目には、その霧の中からゆらりと現れた影が映っていた。
人形のような姿の、それでいて人間には見えない奇妙な存在だ。
健一の心臓は鳴り響き、その存在に引き寄せられていく。
友人たちが焦って戻ろうとする声が、霧の中でかき消されていく。
影は次第に近づき、彼の視界を狭めていった。
健一は恐怖に飲み込まれ、背後に振り向こうとしたが、手足が動かない。
何かが彼を捕らえてしまったように感じた。
「け、健一!」友人の大野が彼を引っ張り、無理やり霧の外へと導こうとする。
しかし、影は彼の視界から消えることなく、じっと健一を見つめ返していた。
「放さないで、ここにいて」と、その声が耳元で囁くように聞こえた。
最後の力を振り絞って健一は前進し、大野たちと共に霧の外に飛び出した。
しばらくして振り返ると、影は霧の中に消え、何もなかったかのように静まり返っていた。
ようやくのことで安堵の息をつく健一だったが、何かが彼の胸の奥に残っている気がした。
その晩、健一は夢の中であの影に再び出会った。
彼は将来の不安や、友人たちとの別れ、そしてふとした瞬間に感じる孤独を思い出させられた。
影はもう一度、彼に「放さないで」と囁き、健一はそれに応えようとして目が覚めた。
それから日が経つにつれ、時折、彼の視界にはその影がちらつくようになった。
霧に包まれたあの夜の出来事が、彼の人生に影を落としているようだった。
友人たちに話す勇気はなかったが、彼の心の奥に潜む何かは、決して消え去ることがなかった。
ある晩、健一は意を決して山に再び足を運んだ。
霧が立ち込める中で、自分の心の奥に潜む影に向き合うために。
彼は霧の中で迷い込むような感覚を抱えながら、影との再会を願った。
自分の内部にある恐れも、孤独も、全てを受け入れようとするために、彼は霧の中へと消えていった。