「霧の中の囁き」

田中美奈子は、古くからの伝承が息づく小さな村に住む巫女だった。
彼女の村は、霧の深い山に囲まれ、冬になるとその霧は特に濃厚になり、村の周囲を包み込む。
村人たちは毎年この時期になると、霧の中で迷う者が現れるという噂を恐れていた。

ある年の冬、村に増えた異変によって、美奈子は村の守護神に相談するための儀式を行うことにした。
彼女は、祖母から受け継いだ神事の道具を持ち、夜の霧が立ち込める間に森の中へ向かった。
月明かりがほのかに差し込む中、美奈子は神聖な場を作り、心を落ち着けてその場に座り込んだ。

儀式が始まると、彼女は静かな祈りを唱え、神々に村の平穏を祈った。
しかし、次第に霧が濃くなり、美奈子の周囲に不気味な気配が忍び寄ってくるのを感じた。
目を閉じ、集中する彼女の耳に囁くような声が聞こえてきた。
「助けて、助けて…。私を見つけて…」

美奈子は心臓が高鳴り、不安の闇に引き込まれそうになった。
声の主は人間のものであるはずなのに、どこから聞こえてくるのか全くわからなかった。
霧の中を探し続けるべきか、その場に留まるべきか、迷い始めた。
村で失踪したという数名の人々の名前が頭をよぎり、彼女は声の主がもしかしたらその一人かもしれないと思った。
だが、恐怖が彼女を動かさせなかった。

しばらくして、声が美奈子のそばで再び囁いた。
「助けて…」

霧の精霊かもしれないと思った美奈子は、迷っていた。
彼女の心のどこかが、「この声を無視してはいけない」と叫んでいた。
しかし、助けることが本当に正しいのか、それが安全なのか、彼女は不安に襲われた。
周囲の霧が一層濃くなる中、美奈子は一歩を踏み出す決心をした。

深い霧の中、ひたすら声に導かれるように進んだ美奈子は、足元に何かが触れる感覚に気づいた。
目を凝らすと、そこには地面に跪く人影があった。
驚いて近づくと、その影は彼女の同級生である佐藤だった。
彼は目を閉じ、ただ佇んでいた。
美奈子は心臓が高鳴り、彼を揺すぶるが、反応はなかった。

「佐藤!目を開けて!」と叫んだが、彼は動かなかった。

一体何が起きたのか、美奈子はさらに恐れを感じた。
彼女は、他の消えた村人たちもここにいるのではないかと考え、周囲に目を配った。
すると、霧の中から次々と人影が現れ、誰もが無表情で立ち尽くしていた。

美奈子は思わず涙が出た。
彼らは助けを求めているのに、彼女自身が迷ってしまっていることを思い知った。
やがて、霧の中の声が明確になった。
「元の世界に戻れない者が、ここにはたくさんいるの…」

声の正体が霧によって捉えられないことに恐れを覚えながら、美奈子は深呼吸した。
彼らを救うには、自らの力が必要だと気づいた。
彼女は儀式のリズムを思い出し、心を一つにして力を込めた。

「私の思いが、あなたたちに届きますように!」

霧は一瞬静まり、その瞬間、美奈子の目の前に光が現れた。
失踪した人々の表情が明るさを取り戻し、彼らは霧の中から解放された。
美奈子は、彼らが安らかな表情で微笑みながら消えて行くのを見届けた。

霧が晴れた後、彼女はひとり残された。
彼女の中には、確かな達成感と共に、学びがあった。
人は迷った時こそ、心の声に耳を傾けるべきだと。
美奈子は村に戻り、これからも神とのつながりを大切にすることを決意した。
acus

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