深夜の駅は静まり返っていた。
普段は賑やかな場所も、夜になると霧の中に包まれ、一層神秘的な雰囲気に変わる。
鉄道会社の下請けで働いている佐藤は、一人で駅の清掃を終え、帰宅の途につこうとしていた。
時計を見ると、もう遅い時間だったが、彼の仕事はまだ終わっていなかった。
最近、駅の一角で不気味な現象が続いているのだ。
それは、駅のホームの端にある古いベンチにまつわることだった。
そのベンチに座ると、必ず不思議な体験をするという噂が立ち、夜勤をしている彼も、その噂を耳にしていた。
具体的には、ベンチに座っていると、何かに“転”が促され、意識が冥界に引き込まれるような感覚に襲われるという。
半ば興味本位で、佐藤はそのベンチに近づいてみることにした。
彼は慎重にホームの端に歩き、ベンチに腰を下ろした。
最初は何も感じなかったが、次第に周囲が薄暗くなり、耳元で囁くような声が聞こえてきた。
「ここにいる…」その声は、まるで彼を引き込もうとしているかのようだった。
心臓が高鳴る。
佐藤は思わず立ち上がり、すぐにその場を離れようとしたが、足が動かない。
まるで誰かに引き止められているかのような不気味な力が働いていた。
そのとき、目の前に一人の女性が現れた。
彼女は薄暗い中で微笑んでいるが、その目は虚ろで、何かしらの異様なオーラを放っていた。
「あなたも私の仲間になりたいの?」彼女はそう言った。
佐藤は恐怖を感じ、振り向こうとするが、周囲の景色がぐるぐると回り始めた。
まるで今まで見ていた駅の光景が、彼の意識を混乱させるためにわざと捻じ曲げられているかのようだった。
「終わらせたいの?それとも、ずっとここにいたいの?」女性の声が耳に響く。
彼は逃げたくても逃げられず、その場に取り残されてしまった。
感覚が麻痺していく中、彼の脳裏に過去の記憶がよみがえった。
駅での運転中、不注意から起こった事故の光景、そしてそれに巻き込まれた人々の悲しむ顔が、次々と頭の中にラクガキのように描かれていく。
「人を巻き込んで、あなたは何を感じた?その痛みを忘れないで…」視界がブラックアウトする瞬間、彼はその女性の顔をじっと見つめた。
霊が語りかけてくるのか、彼自身のトラウマが喋りかけているのか、どちらかは分からなかった。
ただ、彼はその場を離れたいと必死に思った。
几帳面で真面目な性格の彼にとって、この状況は耐え難いものであった。
せめてこの世の現実に帰りたい。
そう思った瞬間、足元が急に軽くなり、佐藤は再び周囲の景色が現実に戻ってきた。
しかし、女の姿は消えていたものの、彼の背後で誰かの視線を感じた。
振り返ると、誰もいないホームの向こう側には、誰をも閉じ込めるような暗闇が広がっていた。
佐藤は慌ててその場を離れ、ホームを駆け抜け駅の出口へ向かった。
心臓は高鳴り、恐怖のあまり手が震えていた。
駅の外に出ると、薄明かりの街灯が彼を迎え入れ、先ほどの恐ろしい感覚が徐々に薄れていった。
不気味なベンチは振り返ることすらできなかったが、彼の心には今もその女の笑顔が刻まれている。
そして、彼は神秘的な現象を決して忘れないだろうと心に誓った。