「霧の中のバス停」

彼女の名前は和美。
静かなバス停の近くに住む、誰からも愛される普通の女の子だった。
和美はいつも同じバスに乗って学校に通っていたが、そのバスは夜に運行する特殊なもので、運転手もまるでゴーストのように存在感がなかった。

ある晩、和美はいつものようにバス停で待っていた。
しかし、その日はいつもと違った。
霧が立ち込め、視界がぼんやりとしていた。
数分待ってもバスは現れず、和美は不安になった。
彼女はその場で足を踏み鳴らし、時折視線を手元のスマートフォンに落とした。

「どうしてこんなに遅れるの…」

そう呟くと、ふと彼女の前に影が現れた。
見上げると、そこに立っていたのは、彼女が知らない男だった。
黒いコートを羽織り、顔はシルエットに埋もれて見えなかった。
その男はじっと和美を見つめていた。
和美は身の毛もよだつ感覚を覚え、思わず後退してしまった。

「君、待っているのか?」

男の声は低く、冷たい響きを持っていた。
和美はただ頷くことしかできなかった。
男は微笑み、バス停の隣に立っていた古びた道へと指を指した。

「その道を進めば、特別なバスが現れる。」

和美の胸には奇妙な期待感と警戒心が渦巻いた。
男の言葉が本当かどうか分からないが、彼女は惹かれるようにその道を進んでみることにした。

道は徐々に狭まり、周りは暗くなり、どこか無気味な気配が漂っていた。
しかし、好奇心が勝ったのか、和美はそのまま進み続けた。
数分後、彼女の目の前にひときわ大きなバスが現れた。
真っ黒なボディに窓は薄暗く、まるで異次元から出てきたようだった。

バスのドアが開くと、運転手は現れた。
彼もまた無表情で、和美をただ見つめていた。
何の説明もないまま、彼女はそのバスに乗り込んだ。
中は静まり返り、他の乗客は誰もいなかった。
和美は恐怖を感じつつも、どこか引き付けられる思いで座席に腰を下ろした。

バスはそのまま動き出し、しばらくしてから周囲はどんどん不気味になっていった。
目の前には全く見覚えのない風景が広がっていた。
携帯電話も無反応で、和美は不安感に押しつぶされそうになった。

突然、運転手が和美に振り向いた。

「君が失ったものについて、話してみるかい?」

その言葉に、和美は心が躍った。
彼女は忘れていた思い出、心の奥底にしまい込んでいた感情が表面に浮かび上がるのを感じた。
彼女は母を早くに亡くし、心の中に空洞のようなものを抱えていたことを思い出した。

「私は…ずっと、母がいないことを忘れないようにしていた。でも、こんなにも辛い思いをしていることを誰かに伝えたかった。」和美の目から涙が流れた。
すると、周りの景色が急速に歪み始め、運転手は黙ったまま微笑んでいた。

バスは再び暗闇の中に沈み、和美はそこで目を覚ました。
バス停に戻っていた。
周りは静まり返っており、彼女の心には何かが変わった感覚があった。

「私はもう一度、歩き出せるかもしれない。」

和美はそう感じ、今までの恐れを振り払うように、その場を後にした。
彼女の中で、失ったものと向き合う覚悟が生まれたのだった。

タイトルとURLをコピーしました