「霧に消えた怨念」

深い森の中、遭(あう)という名の心優しい男がいた。
彼は日々の生活に疲れ、静かな場所を求めて森へと迷い込んでしまった。
霧が立ち込めるその場所は、まるで別世界のように静まり返っていた。
木々は不気味に影を落とし、心の奥にある恐れを意識させた。

遭は、周りの静寂に耳を澄ましながら、一歩一歩進んでいった。
霧が徐々に濃くなり、自分の手がどのように見えているのかもわからなくなるほどだった。
彼の心には不安が募り、何かが彼を見つめているような気配を感じ始めていた。
その瞬間、彼の視界に薄ぼんやりとした人影が現れた。

驚きすら覚える間もなく、影は遭の方に近づいてきた。
それは透明感のある女性だったが、その顔には恐ろしいほどの憎しみが宿っていた。
彼女は言葉を発しなかったが、冷たい視線が遭を貫いた。
その視線に触れると、彼はまるで動けなくなったかのように感じた。

「なぜここに来たのか?」彼の心の中で問いかけが響く。
遭は恐怖に包まれたまま、返答できなかった。
霧は彼の周りで渦を巻き、視界を奪っていく。
彼女は一歩前に進むと、薄い霧の中から無数の手が現れ、遭を囲み始めた。
彼はその手に何かを引き寄せられるような感覚を覚え、ますます恐怖が募った。

その時、彼は彼女の正体を察った。
かつてこの森で多数の人間が迷い込み、二度と戻れなかったことを知っていた。
彼女はその犠牲者の一人であり、無に滅びた怨念が昇華されずに、この森に還ってきていたのだ。

「私も迷った…」彼女はか細い声で呟いたが、その声音は霧の中に消えていく。
遭は、彼女の悲しみを理解しようと試みた。
しかし、その思考すら霧に解けて消えそうで、彼は自分の命が消えゆくのではないかという恐怖を感じていた。

でも、焦って逃げようとすることはできなかった。
なぜなら、霧の中で何が本物で、何が幻なのかわからなかったからだった。
この場所は、過去の影が集まり、そして永遠に彷徨っている場所だったのだ。

心の中で、遭は彼女の気持ちを理解し、森の苦しみを解消する方法を見つけようと決心した。
彼は彼女に近づき、「あなたを助けたい」と叫んだ。
怨念の女性は驚いた表情を浮かべ、怨念を湛えた瞳が彼に向けられた。
彼女の表情は少し和らぎ、手を差し伸べる。

霧が薄れ始め、周囲の景色が現れ始めた。
その瞬間、彼には出て行くべき道が見えた。
彼女の手を取ると、温もりを感じた。
二人の心が交わり、彼女は少しずつ悲しみを拭い去っていくように思えた。

だが、霧は再び厚くなり、彼女の影が消えていく。
遭は手を離さないように必死だったが、彼女はもう戻れないことを理解していた。
「無の中へ行くのよ…」その言葉が響き、彼女の姿は霧の中に消えてしまった。

遭はその場にひざまずき、静かに涙を流した。
彼女の記憶は永遠に残るだろうが、その存在を知り、一瞬でも彼女を理解できたこと、そのことだけが彼にとっての賜物となった。
彼はゆっくりと立ち上がり、光の方へ進み始めた。
霧が晴れ、彼はその場を離れ、再び日常へと戻ることができた。
しかし、心の奥には、彼女の悲しみと無である彼女の存在が永遠に刻まれた。

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