「霧に包まれた思い出」

霧が立ち込める夕暮れ時、小さな町の入口にある古い神社が静寂に包まれていた。
町の住人たちは、この神社とその周辺を恐れ、あまり近づこうとはしなかった。
昔から、その場所では不可解な現象が多発すると噂されていたからだ。
特に、夏になると現れるという霧は、町に安らぎを与えるどころか、逆に恐怖をもたらす存在として人々の記憶に刻まれていた。

神社の中で巫女として働く佐藤華は、霧の出現について特別の感情を抱いていた。
彼女は、自身の家系が長い間この神社を守ってきたことを誇りに思いながらも、父から聞かされた禁忌の話が頭から離れなかった。
「霧の中には、失われた者たちの思いが込められている」という彼の言葉は、何度も華の心に響いていた。
そして、彼女もまた、霧の中に何か特別なものが存在するのではないかと感じていた。

ある晩、華は仕事を終えて帰る途中、ふと神社の境内が不思議に明るく輝いていることに気づいた。
霧がかかり、薄暗い光が満ちる中、彼女は思わず近づいていった。
すると、霧の中から彼女の名前を呼ぶ、かすかで悲しげな声が聞こえてきた。
「華…」その声は親しみがあったが、その響きはどこか遠くから掻き消されるように耳に残る。

心に引き寄せられるように、華はその声を追いかけた。
霧の中で彼女が目にしたのは、まるで夢のように浮かんでいる過去の出来事だった。
幸せそうに笑う家族の様子。
彼女が子供の頃、祖母と過ごした穏やかな日々。
だが次の瞬間、彼女の記憶が歪み始めた。
笑っていた家族の顔が一瞬で苦しみに満ちた表情に変わり、逃げることもできず、彼女はただ見つめることしかできなかった。

「ああ…」華の声が震えた。
霧が彼女の周りを取り囲むと、その中から無数の影がゆらめいて現れた。
彼女は恐怖に駆られ、周囲を見ると、影たちが彼女を包み込むように迫ってきた。
それは、忘れ去られた者たちの痛みと共鳴しているかのようだった。
「覚えているか?」

突然、影のひとつが華の目の前に姿を現した。
それは祖母だった。
だが、祖母の目は虚ろで、彼女の口からは無限の悲しみが滲み出ていた。
「あなたが忘れてしまったら、私たちはこの霧の中で彷徨い続ける。私のことも、私たちのことも、忘れないで…」

言葉が届いた瞬間、華の心の奥底が揺らぎ、彼女の記憶が押し寄せる波となった。
彼女は、祖母が遺した言葉、そして流された涙が自らの存在にも影響を与えていることに気づいた。
霧の中、華は決意を胸に刻んだ。
「私は、忘れない。ここにいる、すべての思いを。」

祖母の影は涙を浮かべながら微笑み、少しずつ霧の中に溶け込んでいった。
華はその後も神社を守り続け、人々に忘れ去られた物語を語り継ぐことを誓った。
霧は時折神社に現れ、一緒に過ごした思い出や悲しみをもたらしながら、彼女の心に生き続けていた。
そして、華はその霧こそが、人々の記憶の証であることを知っていた。
誰もが忘れることのないように、彼女はその存在を覚えているのだった。

タイトルとURLをコピーしました