「離れない影」

静かな田舎町の外れに、長い間放置された古い家があった。
その家は、周囲の草木に覆われ、住人がいなくなったかのように荒れ果てていた。
近所の人々はその家を「離れた家」と呼び、恐れを抱いていた。
言い伝えによると、その家には不思議な音が聞こえるというのだ。

ある晩、若い男性の大輔は、友人たちと肝試しにその「離れた家」を訪れることになった。
皆で集まり、心の中で勇気を奮い立たせながら、懐中電灯を手に持って家の前に立った。
大輔は、恐怖心を隠しながら一歩踏み出し、扉を開いた。

古い木の扉が軋む音をたてて開くと、漆黒の闇が彼を迎え入れた。
薄暗い廊下を進むと、しばらくして背後からかすかな音が響いた。
最初は風が吹く音かと思ったが、よく耳を澄ませると、そこには人の声のような「し…」というささやきがこだまする。
友人たちもその声に気がつき、恐る恐る振り返ったが、誰もそこにはいなかった。

大輔は、何かが彼らを呼んでいると感じた。
心のどこかで、その声の持ち主が彼に何かを伝えようとしているような気がした。
再び前に進むと、ひんやりとした空気に包まれ、さらに奥の部屋へと足を進めた。

その部屋には、古びた家具と埃にまみれた写真立てがあった。
しかし、彼らの目を引いたのは、部屋の隅にいた一匹の犬だった。
柴犬のようなその犬は、薄明りの中で大輔をじっと見つめていた。
彼はその犬に近づき、優しく声をかけた。
「おい、ここに何があるの?」

すると、犬は小さく吠えると、何かを伝えようとするように部屋の奥へ向かって走り出した。
大輔はその後を追い、多くの質問を抱えつつも、犬の後を延々と辿ることにした。
犬が止まったのは、家の一角にあった古い鏡の前だった。

鏡には淡い光が宿り、何かが映し出されている。
大輔はその映像に引き寄せられ、近づいた。
鏡の中には、幼い女の子と犬の姿が映し出されていた。
彼女は楽しげに笑い、その犬と遊んでいる姿だった。
やがてその映像が曖昧になり、少女がささやき始めた。
「離れないで…」

その声は、彼の心に深く響いた。
同時に、さっきの犬の声も重なって聞こえてきた。
「し…」「も…」。
その言葉が何を意味するのか、理解するのにしばらく時間がかかった。
しかし、大輔はその瞬間、女の子がこの家を離れられず、何か大切なものを失っているのだと感じ取った。

不安に駆られた大輔は、その場から逃げ出したい衝動に駆られた。
友人たちの声が遠くから聞こえてくるが、その声もまるで幻のようであった。
彼は一瞬立ち止まり、振り返った。
犬は鏡の前でずっと大輔を見つめていた。

大輔は、その犬の瞳の奥に、少女の切ない思いを感じ取った。
家から離れた世界で、今も彼女は何かを待ち続けているのかもしれないと思った。
彼は後悔の念を抱えつつ、一歩踏み出し、その場を離れた。

日の出とともに、彼と友人たちはその家を後にした。
耳には、あの切ないささやきが今でも残っていた。
「離れないで…」その声は永遠に響き続け、胸の中にしっかりと根を下ろしたままで彼を苦しめるのだった。

それ以来、大輔はその家を訪れることはなかった。
しかし、毎年同じ時期になると、彼の心にはあの声が響き、思い出がよみがえってくる。
「もしかしたら、今もどこかで彼女は待っているのかもしれない」と、彼は思うのだった。

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