その夜、漁師の隆は、漁のために小舟を出した。
漁場は満月の光を浴び、波の音しか聞こえない静かな海だった。
しかし、彼の心の中には不安が広がっていた。
近年、漁の収穫が少なく、次第に生計が立たなくなっていたのだ。
彼は焦りを感じつつ、暗い海原へ漕ぎ出していった。
潮の流れに身を任せ、隆は漁の仕掛けを下ろす。
漁が始まると共に、彼の心は穏やかになる。
しかし、すぐに何かがおかしいことに気がついた。
周囲が急に静まり返り、波音すらも消え失せていく。
ふと顔を上げると、月の光が雲に隠れ、周囲が闇に包まれてしまった。
「何だ、これは?」隆は不安が胸をよぎる。
暗闇の中、彼の周りには何も見えなかった。
漁具の音が反響するだけで、彼以外の者がいる気配はしなかった。
漠然とした恐怖が彼を襲う中、船が突然大きく揺れた。
「おい、何だ?」隆は驚き、体を支えた。
しかし、その瞬間、彼の目の前に人影が現れた。
真っ黒な水面から、顔が覗く。
それは彼の知っている顔、数年前に海で遭難した同業者の清だった。
清は笑っているように見えたが、その笑みには何か異様なものが混じっていた。
「隆、漁はどうだ?」清の声はどこか耳障りだった。
隆は動揺し、その場を立ち去ろうとしたが、清の目は彼をしっかりと捕えていた。
「戻るんだ、隆。漁はここからが本番だよ」と清は言い、彼が指差した先には異様に光るものが見えた。
それは魚とは違った、虹色に輝く奇妙な生物だった。
「この魚はどこにでもいるけど、簡単には捕まえられない。そして、君はまだ捕まえるチャンスがあるよ」と、清はほのめかす。
隆は冷や汗をかきながら、清の言葉に耳を傾けた。
清は言った。
「ずっとこの海にいる。君も俺と一緒にならないか? そうすれば、いつでも漁に出られる。」
その言葉を聞いた瞬間、隆は清の目の奥に漂う沈んだ色を感じた。
彼は何か大切なものを失いつつあることを理解した。
「いや、私は…」
そこに再び月が顔を出し、清の姿が一瞬虚ろになった。
隆は恐れに駆られ、船を漕ぎだす。
すると、背後で清が怒声をあげた。
「逃げるな、隆! お前は俺を裏切ったんだ!」
霧が立ち込め、隆は必死に舳先を向けた。
しかし、霧の中から清の姿が迫り、彼の腕を掴まえる。
「お前もここに留まる運命だ。この海は俺が守ってきたもの。お前が諦めた漁など、俺が必ず繋いでやる。」
その瞬間、肝が冷えた隆は、もう後戻りできないと感じた。
闇が彼を襲い、浮かぶ清の顔は笑顔のまま、彼を引きずり込もうとしていた。
隆は力いっぱい漕ぎだし、清の導く闇から逃れようと必死になった。
清の声が響く。
「お前が選ばれたんだ。しかし、お前の選択次第で運命は変わる」
船は揺れに揺れたが、隆は心に決意を抱く。
彼は清に背を向け、明け方の光が訪れる方向に向かって滑舌を続けた。
「私はお前にはならない! 私は戻る。」
やがて、周囲に明るい光が差し込み、隆はまぶしさの中で目を覚ました。
そこに広がるのは穏やかな海と、静かに揺れる小舟だった。
背後には影もなく、清の姿は消えていた。
けれど心の奥には、まだ清の言葉が響いていた。
彼は決して忘れない。
漁の先に待つ暗い縁と、それを懸命に断ち切ろうとした自分自身の選択を。
海は静かに彼を見守っていたが、彼は既にその海から一歩離れたのだ。