「鏡の奥の影」

ある日、官は古い家から引っ越してきた。
新しい家の一室には大きな鏡がかかっており、その鏡の周りには主に白い布が掛けられていた。
引っ越してきたばかりの官は、その鏡に特に興味を抱かなかったが、なんとなく気になって触れてみることにした。

布をめくると、鏡はなんとも不気味な質感を持っており、まるで奥深くから誰かに見られているような気配がした。
官は思わず手を引っ込め、少し後ずさった。
だが、彼は「まあ、ただの古い鏡だろう」と自分に言い聞かせ、そのまま周囲の片付けを続けた。

数日後、官が夜遅くまで仕事をしていると、真夜中の静けさの中、鏡の向こう側で微かな音が聞こえてきた。
「ギシギシ」と何かが動くような音だった。
その音に惹かれた官は、意を決して鏡の前に立った。
彼は自分の姿を鏡で確認したが、その反射の中に何か異様なものを感じた。

その日は何も起こらなかったが、次第に鏡の中に自分以外の「影」が見えるようになってきた。
薄暗い部屋の中で、その影は自分の肩越しに立ち、じっと見つめているように感じる。
官は恐怖を覚え、鏡を見ないようにしようと決めたが、手を伸ばして鏡を覆い隠す布をかけることはできなかった。

数週間後、官は夢を見た。
夢の中で、鏡の中の影が「助けて」と囁くのだった。
官は夢の中で手を伸ばし、その影に触れようとした瞬間、冷たい感触が伝わってきた。
まるで冷たく、無機質な何かが彼を引き込もうとしている。
官はその恐怖から目が覚め、すぐに鏡の前に立ち尽くした。

それ以来、官は鏡を見るたびに息苦しさを覚えるようになった。
友人たちが遊びに来ると、自分の居場所を鏡の近くから遠ざけることにした。
しかし、その日はついに訪れた。
官が友人を招いて賑やかに過ごしていたある晩、ふとした瞬間、鏡の前で一人の友人が待機していたことに気づいた。
「お前、なんか変わったことあったか?」と友人に尋ねたものの、友人は意に介せず笑っていた。

しかし、その時、官は一瞬、鏡の中に自分以外の顔が映っているのを見た。
その顔はゆっくりとこっちを向き、にやりと笑った。
官の心臓はドキリとし、彼は友人を引き寄せようとした。
「見て! 鏡の中に…!」と言いかけたが、放心状態に陥り、それ以上の言葉は出なかった。

鏡の反射に気付いた友人たちも次第に恐怖に駆られ、鏡から目を逸らした。
だが、官はその影から逃げることができなくなってしまった。
「また、夢の中に現れるのかな…」と彼は考えていたのだが、正直なところ、もうそれは夢の中の出来事ではないことを痛感していた。

鏡には自分自身が映っていない時間がある。
その時、官はその影が何者かを理解し始めていた。
それは、鏡の奥に閉じ込められた自分自身であり、かつての彼の姿をも表わしているのだ。
自分の過去の記憶がある場面が閃き、彼はその影が、自分が今まで目を逸らしてきた「自分」そのものであることに気付いた。

だが、時は遅かった。
この夜、官は友人たちを置き去りにして、暗い鏡の奥に引きずり込まれてしまった。
次の日、誰もいない部屋には、ただ大きな鏡だけが静かにかかっていた。
そして、その鏡の中には、官の姿はなかった。
ただ、彼がかつていた時間の残骸だけが映っていた。

タイトルとURLをコピーしました