静かな夏の夜、佐藤一郎は古びた廃屋に足を運んだ。
都市の喧騒から離れ、友人たちとの肝試しのために選ばれたその場所は、周囲の木々に囲まれ、かすかな月明かりさえも遮ってチリチリとした恐怖感を漂わせていた。
古びた木の扉を開けると、湿気を孕んだ空気と共に、昼間の騒がしさとはまったく異なる静寂が広がっていた。
暗闇の中で、友人たちは一郎に促されるまま次々と中に入る。
だが、噂によれば、この廃屋には何かしらの「覚えのある存在」が住み着いていると言う。
彼らは少しばかり勇気を振り絞り、心の中でその怖れを消し去ろうとした。
やがて、仲間たちとともに薄暗い部屋に集まり、怖い話を始めることにした。
その場にいる全員が何か特別な緊張感を抱きながら、それぞれの話を語り始めた。
笑い声や叫び声が交じりながらも、一郎はどこか心がざわざわした。
友人の話が続く中、彼らが何気なく自分の住んでいる町や、時々耳にする昔話に触れ始めると、何ともいえない「懐かしさ」を感じた。
突然、その部屋の真ん中にある大きな鏡が、冷たい風に揺れるように音を立て始めた。
「見て、一郎!鏡が揺れてる!」友人の一人が叫び、皆が一斉にその方向を向く。
その瞬間、彼の目の前に浮かび上がるように、かすかな影が映し出された。
薄暗い鏡の中には、どこか優しげな女性の姿があり、彼女は一郎の方をじっと見つめ返してきた。
一郎の心は不安でいっぱいになった。
どこか懐かしいその表情は、どこかで見たことがあるような感覚を呼び起こす。
まるで彼の過去を知っているかのように。
そこで彼は思い出した、その女性は十年前、彼が小さな頃によく遊んでもらった近所のおばさんであった。
彼女の優しい笑顔に、いつも安心感を感じていた。
ある日、そのおばさんは突然行方不明になり、町中を騒がせたことがあった。
友人たちと遊ぶ最中に「彼女のことを覚えているか?」と聞いてみたが、皆は首をひねるばかりだった。
その時、一郎は感情が込み上げ、涙があふれそうになった。
彼女が今もこうして、彼に何かを訴えかけているのだと、心の底から感じた。
「おばさん!どこにいるの?」一郎が叫ぶと、鏡に映る影は微笑んだ。
しかしその笑顔は次第に悲しげなものに変わり、彼の心に重くのしかかってきた。
周囲の仲間たちはその様子に驚き、近寄ってくるが、彼は一心不乱に鏡を見つめ続けた。
「私の声を、聞いているの?」その瞬間、一郎の耳にかすかな声が響くのを感じた。
女の子のように甲高い声。
自分の名前をよんでいる気がした。
そして一郎は、覚えのある言葉を返した。
「おばさん!ごめんなさい、あなたを忘れてしまっていた。」その言葉が彼の口から出ると、鏡の中の姿が少しずつ消えていくように感じた。
「彼女は、私たちが覚えていないことに悲しんでいる。」一郎はそう思った。
彼は今すぐにでも彼女を忘れないと、心に誓った。
「おばさん、私はあなたを忘れない。」
その瞬間、鏡の前の空間がしゅっと弾け、急に静寂が訪れた。
友人たちも言葉を失い、ただ立ち尽くす。
すると、次第に周囲が明るさを取り戻し、鏡の中から何も映らない空間が広がっていた。
無邪気だった頃の思い出が心に渦巻き、その瞬間、彼は確かにおばさんの心を受け取ったのだと感じた。
それ以来、一郎は彼女のことを常に心に留め、友人たちとの会話の中にその思い出を織り交ぜつつ、彼女への感謝の気持ちを忘れないよう努めるようになった。
そして何より、彼女が求めていたのは「覚えてもらうこと」だったのだと、しみじみと思い返すのだった。