「鏡の中の物語」

奥深い山の中に、誰も訪れない古びた家があった。
その家は、かつて人々が集まる温かい雰囲気が漂っていたという。
しかし、現在は誰も近づかず、年月が経つにつれて植物に覆われ、周囲の自然に飲み込まれていった。
ある日、若い作家の健二は、創作活動のためにこの家を訪れることにした。

健二は、家の外観からは想像できないほどの緊張感を覚えながら、扉を開けた。
入ると、空気はひんやりとしていて、ほこりっぽい香りが漂っていた。
壁には古びた絵画がかかり、家具は薄暗い光に包まれていた。
しかし、健二は作家としての感性が刺激され、さまざまな物語が頭に浮かぶのを感じていた。
彼はここでの生活を楽しむため、数日間貸し切ることにした。

夜になると、静寂の中に不思議な声が響いた。
「話せる者たちよ、ここで語り合おう」という声が耳に残る。
健二は驚いたが、かつての温かい雰囲気を信じてみたいと思い、その声の主を探し始めた。
家の奥へ進むにつれて、声は次第に大きくなり、彼の心に何かを求めるような響きを持っていた。

「お前も、物語を欲しているのか?」その声は、まるでこの家の一部のように感じられた。
健二は怖れず、声に従って奥へと足を踏み入れた。
そして、目の前にあった大きな鏡に映った自分の姿を見て、ふと不気味な感覚に襲われた。
鏡の中にはかつての住人たちの影がうっすらと映り込み、その目は彼を見つめていた。

「我々の物語を、語り継げ」と言う声が再び響く。
健二はその言葉に戸惑いながらも、興味を持った。
彼の心に、今まで知りえなかった物語が潜んでいると感じられたからだ。
健二はすぐにペンを取り出し、目の前の鏡と、その先にいる何者かの物語を書き始めた。

時間の感覚を失い、健二はずっと書き続けた。
彼の作品は次第に具体化し、物語が進むにつれ、彼は自分自身の存在を忘れるほど夢中になった。
しかし、書き終えた時、彼は驚愕した。
物語の中で語ったはずの住人たちが、すでにこの世を去った人々であり、同時に彼自身も別の存在に変わっていたのだ。

ふと気付くと、健二は自分が書いた物語の主人公になっていた。
彼は今、鏡の中に入り込んでしまい、奥深い家の住人となっていた。
健二は、物語の幕が閉じたとき、彼の心に重くのしかかる感情を感じた。
それは、解放されたはずの何かが再び閉じ込められたような感覚だった。

結局、健二はそのまま家から帰ることはできず、彼の名前が消え去ることとなった。
数年後、作家としての名声を求める人々がこの家の前を通り過ぎると、奇妙な声が彼に耳打ちしてきた。
「話す者よ、また帰らぬ者となれ」と。
古びた家は今も、失われた物語を求めているのだ。
訪れる者はただそれを知り、振り返ることもできず、家の奥へと吸い込まれていくのだった。

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