ある晩、平井は友人たちと共に都会のジャズバーに足を運んだ。
バーの奥にある小さなステージでは、渋いテイストのバンドが演奏をしていた。
彼は音楽と共に酔いしれ、楽しいひとときを過ごしていたが、ふとした瞬間、目に留まったのが舞台の脇に置かれた大きな鏡だった。
その鏡は、まるで時代を超越したような不思議な雰囲気を漂わせていた。
彼は何気なくその鏡を覗き込むと、自身の姿が映し出される。
しかし、すぐ隣には別の人影が映っていることに気がついた。
それは鏡の中の世界にいる女性で、彼女は微笑みを浮かべてこちらを見ていた。
彼女の名前は尚子。
かつて平井が愛した人だった。
「尚子?」彼は思わず声を上げ、周囲の友人たちを驚かせた。
だが、鏡の中の彼女は何も言わずに微笑み続ける。
その表情は、彼を温かな記憶の中に誘った。
数年前、尚子は突然の事故でこの世を去ってしまった。
平井はその喪失感から立ち直ることができず、心の中に彼女を閉じ込めたままだった。
今、鏡の中で彼女が微笑んでいるのを見ると、心の奥にある悲しみと愛おしさが交錯した。
「どうしてここにいるの?」彼は鏡に問いかけた。
すると、尚子はかすかに首を振り、指をさした。
その先には、薄暗いバーの中で彼がかつて彼女に贈った小さな音楽ボックスが置かれていた。
そのボックスは、彼女が好きな曲を奏でるもので、今でも時折平井は思い出として使っていた。
彼はその音楽ボックスを取りに行くと、再び鏡の前に立った。
尚子はそのボックスを見つめ、優しい眼差しを向けていた。
彼は彼女に手を差し伸べたが、鏡の中の彼女は近づくことができない。
気持ちが高まり、平井は思わず盛り上がった音楽に合わせて踊り始めた。
そこには、何かの合図があったように思えた。
その瞬間、周囲の音楽が止まり、バーは静寂に包まれた。
平井は不安を覚えたが、鏡の中の尚子は微笑みを失わず、何かを待っているかのようだった。
彼はもう一度、思わず言葉を発した。
「尚子、私はあなたを愛していた。今でも、ずっと。」
その瞬間、鏡に映った景色が変わり始めた。
平井は目を凝らし、鏡の中にどんどん引き込まれていく感覚を覚えた。
バーの灯りや音楽が、まるで幻のように消え去り、自分が尚子と共にいる異次元にいることを実感した。
「私も、あなたを愛している。」尚子の声が静かに響いてきた。
彼はその言葉に胸が熱くなり、思わず涙がこぼれる。
愛する人と共にいることの歓びと、彼女が欲しかった「愛の形」が、鏡を通して交錯した。
だが、平井は気がついた。
鏡の中の世界は美しいが、現実世界には戻らなければならない。
彼は尚子に向かって言った。
「私はもう一度、君に会いたい。君と一緒になりたいけれど、現実にも戻らなきゃ。」
「大丈夫、あなたは私の中に生きている。私の思い出はずっとあなたと共にあるから。」尚子は微笑み、平井の手を優しく握った。
彼の心は切なさで満たされたが、同時に希望が湧き上がる感覚を感じた。
その瞬間、平井は一気に引き戻されるように現実に戻った。
バーの音楽が再び流れ出し、まるで何事もなかったかのように周囲の喧騒が戻ってきた。
しかし、彼はもう以前のようには戻れなかった。
時計の針は進んでいたが、尚子との思い出と愛は、彼の中で永遠に生き続けるのだと強く感じていた。
平井は微笑み、鏡をもう一度振り返った。
尚子の微笑みを心に刻み込み、今後も生きる勇気を持ち続けることを誓ったのだった。