それは、ある時代、辺鄙な町の小さな美容院での出来事だった。
この美容院は、古びた建物の2階に位置し、そこに通う客はいつも同じだった。
町の人々は美容院のことを「時のアトリエ」と呼び、髪を切るためだけではなく、思い出を語る場としても利用していた。
店主の美紀は、その町で生まれ育った古い友人に囲まれ、日々の仕事を楽しんでいた。
彼女には、ある変わった噂があった。
それは、店の鏡に映る自分の姿が、実際とは異なることがあるというものだった。
美紀にとって、その話はただの噂に過ぎなかった。
しかし、ある日のこと、彼女は自身もその現象を体験することになった。
その日、閉店間際に一人の客が美容院に訪れた。
彼の名は翔太で、仕事帰りのサラリーマン。
彼は、長い髪を整えてもらうために、美紀の手を借りることにした。
美紀は翔太の髪を整えながら、いつものように軽口を叩いていたが、翔太の動きがいつもと違うことに気づいた。
「翔太さん、元気ないですね?」美紀が声をかけると、彼は少し驚いた顔をして、すぐに微笑んだ。
「いや、そんなことないよ。ただ、最近よく夢を見るようになって…」彼はそう言いながら、鏡に目を向けた。
不意に、美紀は翔太が鏡に映る姿が、自分の目で見ている姿とは異なっていることに気づいた。
翔太の表情は、無表情で、どこか遠くを見つめているようだった。
思わず息を呑んでしまった美紀。
彼女はすぐにその現象を振り払おうとした。
「髪型、気に入ってもらえますか?」美紀は緊張感を隠すように問いかけたが、翔太はそのまま鏡を見続けていた。
すると、次の瞬間、翔太の映る鏡が揺らぎ、彼の後ろに不気味な影が浮かび上がった。
それは、まるで誰かが彼に寄り添っているかのようだった。
美紀は恐怖を感じ、手元のハサミをぎゅっと握りしめた。
「翔太さん!後ろ!」彼女の声が響くが、翔太はその言葉を聞くことなく、ただ鏡を見つめ続けた。
彼の目は虚ろで、次第に青白さを帯びていく。
美容院の空気が張り詰める中、美紀は必死に翔太の髪を切り続けた。
「美紀、私、何が起こっているんだろう…」彼の声は震えていた。
しかし、彼自身が何をみているのかわかっていないようだった。
翔太の背後の影は、次第に形を持ち始めた。
それは、後ろを振り返らせるにはあまりにも恐ろしい姿勢だった。
美紀は動揺しながらも、客席にあるカーテンを引き寄せることにした。
彼女は、何とかその存在を遮断しようとした。
しかし、翔太の影に目を向けた瞬間、彼の目つきが変わり、静寂の中で彼が何かを呟いた。
「君は、私をここに残してはいけない…」その言葉をきっかけに、美紀はどうすることもできず、恐怖が身体を支配した。
彼女は意を決して翔太に向き直り、彼の肩を軽く叩いた。
「翔太さん、少し休みましょう!」と叫んだ。
その瞬間、鏡の中で影が強く振動し始め、美紀は恐怖に駆られて目をそらした。
彼女が再び目を開けた時、翔太は美容院の椅子に座っているが、どこかぼやけて見えた。
「私はどうなるんだろう」翔太の声が響く。
彼の声は次第にかき消され、何かが美紀の心を囚えていくのを感じた。
彼女の周りは静寂に包まれ、時が止まったようだった。
翔太は、自分を何かの跡として残し、消え去ってしまうのかもしれない。
美紀は恐怖を感じながら、ただ彼の背中を見つめていた。
その後、美紀は「時のアトリエ」の隅にあった鏡を取り外す決意をした。
翔太の背後にあった影は、彼を捕らえるために準備を進めていたのだ。
彼女は鏡を処分し、もう二度と誰もあの場所に近づけないようにした。
町の人々はその後、あの美容院に行くことはなくなり、美紀は一人ぼっちで残された。
時は無情に過ぎ去り、町は静かになった。
その町の片隅には、あの日の跡が静かに消え去ることなく残っていた。