「鏡の中の影」

少しの静寂が流れる中、健太は、自らの部屋の隅に佇む古い鏡を見つめていた。
それは彼が物心ついたころから家にあり、母が「触ってはいけない」と注意していた代物だ。
鏡は、年数を経て曇り、何かに汚れたような痕跡があった。
健太はその理由を知りたくてたまらなかったが、母の言葉が耳に残り、手を出すことをためらっていた。

ある晩、家族が寝静まった後、好奇心に駆られた健太は、ついにその鏡に近づいた。
床に座り込み、鏡の表面を手でこすり始める。
すると、かすかに自分の姿が見え隠れする。
やがて、健太の背後に立つ影が浮かび上がった。
それは自分とは異なる、微笑む顔をした少年だった。
驚きと恐怖が入り混じり、健太は一瞬でその場から逃げ出した。

だが、その出来事が気になり、再びその夜、鏡の前に座った。
今度は、影の少年が「健太、僕と遊ぼう」と優しく誘いかけてきた。
彼の声は甘美で、まるで夢のように心地よかった。
どこか惹かれるものがあり、健太はついその影の手を取ってしまった。

瞬間、部屋が暗転し、二人は異なる空間にいることに気づいた。
その空間は、色彩豊かな遊び場のようで、楽しそうな声が響いていた。
しかし、周囲の風景には一抹の不気味さが伴っていた。
無数の子供たちが遊んでいる姿があったが、その目は虚ろで、どこか陰鬱な表情を浮かべていた。

健太は恐れを感じながらも、影の少年と一緒に遊んでいるうちに、次第にその異界に魅了され始めた。
その楽しい時間は、やがて現実の時間を忘れさせ、気づくと何時間も経過していた。
だが、一方で彼の心にはふとした不安が広がった。
少年は時折、こちらをじっと見つめ、何かを語りかけているようだった。

「君もここに残りたいの?」影の少年が尋ねると、健太は一瞬心が揺れた。
この楽しい時間が永遠に続くのなら、現実の厳しさから逃げられるかもしれない。
だが、彼は自らの家庭や友、そして大切な思い出を思い出し、心のどこかでそれを捨てるわけにはいかないと感じた。

「いいえ、僕は帰りたい」と健太は断言した。
すると、影の少年の笑顔が瞬時に崩れ、恐ろしい顔に変わった。
「帰ることはできないよ、あなたはもうここにいるんだから」と囁く。
途端に周囲の色彩が失われ、真っ暗な空間へと変わってしまった。
健太は恐怖に駆られ、必死でその場を逃げ出そうとした。

何度も何度も走り続けた末に、ふと目の前に現れたのは、あの古い鏡だった。
もがき苦しみながらも、その鏡に手を伸ばし、何とか戻ろうとした。
すると、影の少年が後ろから伸びた手を掴み、引き止めた。
「君が逃げたら、僕も消えてしまう」と泣きそうな声で訴える。

しかし、健太は振り払って鏡に飛び込んだ。
目の前が一瞬眩しくなり、次に気づいた時には自分の部屋の床に倒れ込んでいた。
周囲は元の静寂さを取り戻していたが、心には重苦しい感覚が残っていた。
鏡の中の影はすでに消え、ただの古い鏡に戻っていた。

それからというもの、健太はあの異界の出来事を思い出し、心に秘めたまま生活を続けた。
だが、時折ふと鏡を見ると、付いているはずのない微笑みが映り込むのだった。
己が選んだ現実と、あの影の世界の間で揺れ動く心。
いつの間にか、彼は自身の中に異なる何かを持ち続けることを理解するようになっていた。

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