「鏡の中の声」

彼女の名は美咲。
大学生で、医療を学んでいる。
ある日、夜遅くまで研究室に残り、疲れ果てた体を引きずるように帰る途中、街の薄暗い路地で奇妙な声を耳にした。
誰かが自分を呼んでいるような、かすかなささやきだった。
「美咲」「美咲」と、まるで彼女の心の奥底に触れるような声が繰り返される。
美咲は立ち止まり、その声の正体を探ろうとした。

声の主は見えなかったが、どこか懐かしい響きを持っていた。
彼女は徐々に惹き込まれていく自分を感じた。
まるで何かに導かれているかのように、声のした方向へと足を進めると、不気味な静寂が漂う一室にたどり着いた。
古ぼけた診療所で、聞き覚えのある大きな鏡が飾られていた。

恐る恐る立ちすくむ美咲の目に、鏡の中の彼女と向かい合うもう一人の自分が映り込んだ。
しかし、その姿は彼女のものとは明らかに違っていた。
目が異様に赤く、笑みを浮かべていた。
鏡の中の美咲は喋り始めた。
「私の中に入ってみない?」その言葉は、まるで誘うような優しい声だったが、どこか冷たい響きを帯びていた。

美咲は戸惑ったが、好奇心が勝った。
「何が起こるの?」と問いかけると、鏡の中の彼女は微笑みながら「私の中に入れば、全てが分かるわよ」と答えた。
彼女の心の奥にあった不安が、暗い影として忍び寄ってくるのを感じた。
美咲は手を伸ばし、鏡に触れた瞬間、周囲の空気が変わった。
隙間から冷たい風が吹き抜け、身体が鈍くなる感覚に襲われる。

その瞬間、美咲は目を閉じ、次に目を開けたときには、彼女の体は鏡の中の自分と入れ替わっていた。
外界の現実から隔離され、ただ静寂な世界に放り込まれた感覚。
恐怖と混乱が彼女を襲い、自分の声が出せないことに気づく。
周囲には彼女の理解を超えた存在がいっぱいで、すべてが彼女の体を求めてざわざわと動き回っていた。
そして、美咲は気づく。
自分の体の記憶が失われ、他者の心の中に入り込んでしまったのだ。

「仲間たちと一緒に、お前を待っていた」と鏡の中の自分が笑って囁く。
美咲は、もはや彼女ではない何者かとして、他の何人もの声に囲まれて生き続けることになった。
彼女はかつての自分の記憶を探し続けたが、思い出すことができない。
やがて、彼女はそれを受け入れることを決意した。
色褪せた過去の影は、もう存在しない。
代わりに、周囲の声に和らいでいく。

数年後、美咲の伝説が語り継がれた。
彼女はいつも、深夜に鏡の前で座り、自分でもない声で語りかけ続けるという。
彼女の目は、もうかつての明るい色を失っていた。
誰かがふと話しかけると、その声は優しくも冷たく、幽霊のように響く。
周囲にいる者は皆、その声に吸い寄せられ、彼女の周りで耳を澄ませる。
美咲は、もはや解放されることのない存在となり、恐怖と好奇心が交錯する忌まわしい物語の中心として、永遠に生き続けるのだった。

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