マを悩ませていたのは、鏡の中に映る自分の姿だった。
彼女は普通の女子大生で、鏡を見るのが好きだった。
しかし、最近、いつもと違う何かを感じるようになっていた。
それは、彼女が一人暮らしを始めた古い家の、居間に掛けられた大きな鏡だった。
その鏡は、家の中で異様な存在感を放っていた。
なぜか、彼女が鏡を見るたびに、背後で微かに風が吹くような気配が感じられるのだ。
最初は気のせいだと思っていたが、次第にその感覚は強くなり、鏡の前に立つこと自体が恐怖の対象となっていった。
ある晩、マは友人の智子を招いて、食事をすることにした。
智子は明るくておしゃべりな性格で、マの不安を少しでも和らげてくれると思っていた。
食事を終え、リラックスした雰囲気の中、会話は盛り上がった。
しかし、ふとした拍子にマが鏡に目を向けると、映る自分の姿が次第に歪んでいるように見えた。
「ねえ、あの鏡、なんだか変じゃない?」マが言うと、智子も同意した。
「確かに、少し怖い感じがするかも。でも、何も気にしなくていいよ。」その言葉を聞いて、マは少しだけ安心したが、やはり気持ちが悪い。
その晩、マは夢を見た。
夢の中で、彼女は鏡の前に立っていた。
しかし、そこには自分の姿しか映っていないのではなかった。
彼女の後ろには、誰かが立っている気配を感じた。
振り返ってみるが、後ろには誰もいない。
再び鏡を見ると、映っているのはやはり自分だけだったが、今度はその顔が無表情になっていた。
そして、マの心に不安が広がった。
目が覚めると、部屋は静まりかえっていた。
冷たい汗が背中を伝って流れ、マは思わず身震いした。
もう一度、鏡を見てみようと立ち上がったが、その瞬間、背後で小さな声が聞こえたような気がした。
「こっちに来て…」
思わず振り向くと、またしても誰もいなかった。
心臓が高鳴り、足がすくむ。
マは恐る恐る鏡に近づいた。
鏡の中の自分は、今度は微かに笑っている。
違う、今の自分じゃない、と思った瞬間、鏡の表面が波打つように揺れた。
「助けて…」と、鏡の中の自分が口を開いただけでなく、今度は声が現実から発せられたかのように感じた。
その瞬間、マは全てを理解した。
鏡の中には、彼女のもう一つの存在が閉じ込められていたのだ。
言葉ではなく、感情で告げられる何かがある。
彼女は、自分の内面に秘めた恐ろしい何かを認識し始めたのかもしれなかった。
急いで部屋を出たが、気づくと家の中は薄暗く、異様に静まりかえっていた。
ノイズのようなものを背後で感じながら、彼女は決して振り返らなかった。
だが、その日は一晩中、誰かが彼女を見ているような気配が続いた。
鏡が怖いだけでなく、その鏡を見つめ続けると、知らないうちに自分自身が取り込まれてしまうような感覚がした。
数日後、マはその鏡を壊すことを決意した。
廊下に出て、スポーツドリンクの瓶を持ち、その鏡に向かって力いっぱい叩きつけた。
ガラスが粉々に砕け散り、部屋が静かになる。
これで私も解放されるはずだと思った。
しかし、静寂の中で、かすかに小さな笑い声が響くのを感じた。
深夜、再び目を覚ますと、鏡の破片の一つが、まるで映像であるかのように、再び彼女を見つめ返しているように思えた。
それ以来、マはその家を出て行った。
しかし、彼女の心の奥には、まだ鏡の中に封じ込められた何かが存在している。
その恐怖は、彼女の内面に刻み込まれ、決して忘れ去ることができない恐ろしい記憶として、彼女の心を蝕み続けた。
そして、彼女がどれだけ逃げても、その声は時折耳元に囁き続けるのだった。