「鏡の中の囁き」

静かな市の片隅に、誰もがその存在を忘れかけていた古びたアパートがあった。
外観は年月の経過を感じさせるものであり、窓はほとんどが壊れていた。
日が暮れると、ひんやりした風が吹き抜けて、その場にいる人々は近寄りがたかった。
しかし、ある日、このアパートに興味を持つ一人の若者がいた。
名前はリョウ。
彼は謎に包まれた存在で、いつも周囲から浮いていた。

リョウは、何か特別なものを求めていた。
異世界を探求するような感覚が彼の心を支配していた。
そんな彼がアパートの前に立つと、そこには奇妙なことが待っていた。
薄暗い階段を昇り、古びたドアが彼を招き入れる。
ドアを開けた瞬間、目の前には異様な光景が広がっていた。
部屋の中は、黒いカーテンで覆われ、まるで時間が停止しているかのような静寂が漂っていた。

その部屋の中央には、分厚い本が積まれたテーブルがあり、その周囲には無数の写真が散乱していた。
写真には、様々な人々の表情が映し出されていたが、どれも彼に見覚えのある顔だった。
街の人々や、通りすがりの見知らぬ人までもが、彼の目をじっと見つめていた。
リョウは、これらの写真が何を意味するのか理解できなかったが、胸の中に不安が広がった。

その時、部屋の奥から微かな音が聞こえた。
リョウは思わず声をあげた。
「誰かいるのか?」返事はなかった。
リョウは好奇心に駆られ、奥へ進むことにした。
すると、壁にかけられた一枚の大きな鏡に目が止まる。
鏡の中には、彼の背後に誰かの影が見えた。
それは、彼の姿を黒い影で包み込むように存在感を放っていた。

動揺するリョウは、振り返ったが誰もいなかった。
もう一度鏡に目を向けると、影は少しずつ近づいていた。
彼は心臓が高鳴り、身動きが取れなかった。
すると、影は徐々に形を成し、顔の見えない人間のような存在に変わった。
声が響く。
「私を見ているのですね。」

リョウは恐怖を感じながらも、その声の響きに引き込まれるようにして質問を投げかける。
「君は誰だ?」影は微笑んだ。
だがその表情は、彼の記憶から絶対に消し去れない恐ろしい何かに感じた。

「私はあなたの見てきたもの全てです。あなたが振り返ることを恐れていた過去、その全てを看取っている存在です。」

その言葉がリョウの胸に突き刺さる。
共有された恐怖と不安が彼の心を包み込んだ。
リョウは、これまで見てきた景色や人々、その中で感じた喜びや悲しみが、自分の一部であることを理解した。
しかし、同時にそれが、彼を縛り付ける囚われでもあることに気づいた。

「これが私の運命なのか?」リョウは鏡に向かって叫んだ。
しかし、影は淡々と続ける。
「見ていることは避けられない。あなたが見た全ては、あなたの存在そのものであるから。」

その瞬間、リョウは思い浮かべた。
人との別れ、望み叶わぬ苦しみ、そして数え切れないほどの選択肢の中で選ばなかった道。
その一つ一つが、自らの経験に染み込んでいるのだと。
彼には逃れる術がない。

リョウは心の中で決心をする。
自分を見つめなおし、過去を受け入れる覚悟を決めた。
何が起ころうとも、これからの自分を生きて行くのだ。
恐怖の果てに待つものが何であれ、彼は前に進むことを選んだ。
その瞬間、影は微かに笑みを浮かべ、やがて姿を消していった。

静寂が再び部屋を包み込む。
リョウは、あの部屋を後にすることにした。
自分の目で見たもの、感じたもの、それら全てが自分の一部であることを心に刻みながら。
彼は新たな一歩を踏み出すため、心を開き続けることを誓ったのだった。

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