鉄の冷たさが夜の帳を包む中、春美は一人、古い鉄工所を訪れていた。
かつてこの場所では、鉄を練り上げる音とともに人々の喧騒が響いていた。
しかし今、ここは誰も訪れない荒れ果てた場所となっていた。
月明かりがひんやりとした鉄の表面に反射し、彼女の横を通り過ぎる風が、まるで誰かが彼女に耳打ちするように聞こえた。
春美は、昔からこの工場の噂を耳にしていた。
「鉄の裏に潜むもの」と呼ばれる存在だ。
人々はこの場所に近づくのを避け、遠ざかっていった。
だが、それが逆に彼女の好奇心を刺激したのだ。
彼女はこの石造りの工場の奥に入ってみることにした。
鉄の扉は錆びつき、力を入れなければ開かなかった。
扉が開くと、冷たい鉄の匂いが鼻をつく。
内部は暗く、わずかな光を頼りに歩を進める。
歩きながら、春美はふと物音に耳をすませた。
誰かが後ろでささやくような、かすかな声が聞こえた。
「来ないで…」と、何者かの声が耳に残る。
直感的に背筋が寒くなる。
彼女は振り向いたが、そこには誰もいなかった。
しかし、何かが存在している気配が明らかだった。
「ただの風だ」と自分に言い聞かせ、心を落ち着けようとした。
だが、恐怖と好奇心が交錯する中、春美の心は次第に攪拌されていった。
工場の奥には、黒い鉄の箱のような物体が横たわっていた。
それは、ゆがんだ形をしていて、彼女が近づくにつれて何かが異常なものであることを感じた。
春美はその物体を掴み上げ、じっと見つめた。
その瞬間、脳裏に鮮明な映像が浮かび上がった。
彼女は、工場が今は無き頃の様子を思い出した。
多くの人々が鉄を打ち、喧騒が満ちていた。
だが、次第にその光景は色を失い、悲鳴や泣き声に変わった。
工場が突然崩れ落ち、人々が救出されることなく鉄の下に埋もれてしまった記憶。
本来の姿を忘れたキャンバスのように、工場は不気味に静まり返っていたのだ。
「思い出すな…」かすかな響きが彼女の耳に届く。
「ここにいる存在たちが、あなたを待っている。」冷たい鉄の感触が春美の手に伝わり、息を呑む。
背中に冷たい何かが感じられ、振り向こうとするも、動けなかった。
その瞬間、視界が暗転し、工場の裏の現実が目の前に広がった。
春美は、自分が今立っているこの場所が、単なる鉄工所でなく、過去の記憶が凝縮された場所であることを理解した。
彼女は、かつて無残に命を奪われた人々を思い、その鉄の存在が彼女自身に向かって何かを訴えかけているのだと気付いた。
「忘れてはいけない。それが私たちの裏側に潤滑油のように溜まっていると、裏で繋がっているのだから。」声は再び響く。
春美は恐れに震えていたが、同時にただ逃げることができないことを理解した。
彼女はその物体に触れ、目を閉じた。
次の瞬間、彼女は一緒にいる人々の影を感じ、彼らが自分の存在を寄り添わせるのを感じた。
「私たちの記憶を受け入れるのだ。」その声は彼女の心に響き、彼女はその声に導かれるままに、鉄の箱に自らの思いを託した。
時が経つにつれて、春美はこの場所の現実と裏側に向き合い、その鋭い缶のような響きのあるメロディーを思い出した。
彼女は何かを掴み取ったような気がした。
鉄工所の奥に、過去の記憶と現在が混ざり合い、春美自身の存在もこの裏側の中に息づいているのだった。
