田中翔平は、仕事の疲れを癒すため、友人たちと共に週末の船旅に出かけることに決めた。
出発するのは、茫漠とした海の真ん中に建つ「の」と呼ばれる小さな島だ。
島には何もないが、静かな自然の中で心を落ち着けることができると評判だった。
当日、船に乗り込むと、外は晴れ渡る青空。
友人たちと笑い合いながら、楽しみな時間が始まる。
だが、海の中間地点にさしかかった時、突然、曇り空に変わり、風が冷たく吹き始めた。
船体が揺れ、翔平は不安な気持ちを抱く。
友人たちもその変化に気づき、静まり返った。
「これ、ちょっとおかしいね…」と、友人の吉田が口を開く。
翔平は不安を感じつつも、「大丈夫だよ、すぐに通り過ぎるって」と笑ってみせた。
しかし、やがて島が見えてくると、奇妙な静けさが漂っていた。
島は人の気配もなく、まるで忘れ去られた場所のようだった。
島に上陸した後、友人たちは散策を始めるが、翔平はどこか違和感を感じていた。
木々は静かに揺れているが、微かな声が耳に届く。
「帰れ…早く帰れ…」その声は風に乗って、耳をつんざくようだった。
翔平は意を決して、「みんな、ちょっとおかしい気がする。早く船に戻ろう」と提案した。
しかし、暗雲が広がり出し、再び雨が降り始めた。
友人たちは、「もう少し探検してからにしようよ」と言うが、翔平はどうしても不安が拭えず、先に船に戻ることにした。
船に向かって急いで歩くと、まるで追いかけるかのように、雨と風が激しさを増していく。
その瞬間、翔平が振り返ると、友人たちが見えない。
彼は不安に駆られ、仲間を呼んだ。
「吉田!おい!」
返事はなく、ただ強風が翔平の呼び声を掻き消していた。
そして、鳥の羽音が辺りを包み込み、彼は焦りを感じた。
心に浮かんだのは、「聖域から還る者はいない」という伝説だった。
翔平は恐怖に駆られて、船の方へと駆け出した。
しかし、走る足元には泥が絡まり、思うように進まない。
その時、目の前に誰かが立っていた。
見たことのない、青白い顔をした中年の男性だ。
男性は、無表情で翔平を見つめている。
「お前も帰れないのか?」
翔平は恐怖で声を失った。
男性は何も答えず、ただ翔平を指差した。
恐ろしさが全身を包み込み、何かが彼の心に重くのしかかる。
「帰れ…我らの世界に戻れ…」
その言葉が耳に響き、翔平は混乱に陥る。
友人たちが失踪してしまった今、自分も同じ運命を辿るのか。
彼の頭の中で、島の声が重なり合う。
「逃げないで、私たちの世界へ還れ。」
翔平は、懸命に船へと走り出した。
体が重く感じ、もう追いかけてくる気配はない。
船にたどり着いた時、安堵が胸を満たす。
しかし、その瞬間、友人たちの顔が脳裏に浮かんだ。
彼らはどこにいるのだろうか?島の声が、彼の心に棲みつく。
「お前は帰れたが、彼らはどうなる?」
翔平は、船を漕ぎ出し、再び「の」という島を背にした。
だが、心には重いものが残り、いつの間にか遠くの海が心を締め付ける。
友人たちを連れ戻すことはできるのか。
気づけば、翔平は自分自身の恐れと向き合っていた。
彼は「の」という島が、ただの静けさではなかったことを理解し、心の奥にある恐怖を思い知るのだった。