彼女の名前は美咲。
美咲は毎晩、帰り道を歩くのが日課だった。
仕事を終え、思い疲れた体を支えながら、静かな道を一歩、一歩と進んでいた。
道の両側には無数の木々が立ち並び、その枝葉が夜の闇を覆うように広がっていた。
美咲はそんな道を毎晩通っていたが、その道には少し不気味な噂があった。
「その道には、決して一人では帰れない女の霊が出るらしい」という噂だ。
彼女はそんな話を耳にしていたが、特に信じてもいなかった。
それでも、ときおり道を歩くときに、背筋が寒くなるような感覚を覚えることがあった。
しかし、急いで帰りたいと思う時にはそのことを忘れてしまっていた。
ある秋の夜深い日、美咲が仕事を終えて帰ろうとしたとき、ふと忘れ物に気づいた。
デスクの上に置きっぱなしにしていた書類だ。
その瞬間、心に浮かんだのは、いつも通りあの道を通って帰らねばならないという現実だった。
少しいつもより遅くなってしまった。
急ぎ足で道に向かう美咲の心には、どこか不安がよぎっていた。
道はいつもと変わらなかったが、今夜はその静けさが異様に感じた。
木々が風もないのにざわざわと音を立てている。
美咲は思わず振り返ってしまうが、誰もいない。
少し不安を感じながらも、道を進むことにした。
心の奥で何かが囁いているようだった。
「戻った方がいい」と。
途中、美咲の目の前にひとりの女が現れた。
長い黒髪を垂らし、白い服をまとったその女性は、何かを探しているようにうろうろしていた。
美咲が近づくと、女は目を合わせず、ただ道の端の方に身を寄せていた。
彼女の冷たい視線には、どこか淡い憂いが漂っていた。
美咲は思わずその場で立ち止まった。
女の顔を見つめるうちに、彼女は思いついてしまったのだった。
あの噂。
もしこの女がその霊だとしたら、どうしよう…。
心臓が高鳴り、思わず一歩後退した。
「ど、どうしたの?」気まずい沈黙を破るように、美咲は口を開く。
しかし、女はただ静かに頭を下げ、声を発さずに立ち尽くしていた。
美咲の心には、ただ恐怖が広がっていく。
終わらない道、終わらない恐怖。
童子に囚われたかのように感じ、それでも道を逃げるわけにはいかない。
彼女が再び道を進むと、目の前に大きな曲がり角が現れた。
道が二つに分かれ、どちらに進むべきか迷った。
右の道は薄暗く、左の道は光がさしている。
美咲はどちらを選ぶべきか瞬時に悩んだが、彼女の心には、選択をすることの恐ろしさが押し寄せた。
その時、背後から声が聞こえた。
「その道を選ぶと犠牲になる」と。
振り向くと、あの女性の顔がすぐ後ろにあった。
美咲は驚き、声を上げた。
「何を言っているの!」と返すが、その反応は女性には届かなかった。
彼女はじっと美咲を見つめ、そして次の瞬間、顔を悲しみに歪めた。
「私も、この道を通った。けれど、終わらなかった…あの時選んだ道を、今は後悔している」と女は呟いた。
美咲はその言葉が胸に突き刺さるのを感じた。
この道は、一度選んだら戻れない。
それは、彼女にも当てはまることなのかもしれなかった。
美咲は去りゆく女を見送ることしかできなかった。
その瞬間、冷たさが彼女を包みこみ、どこかで彼女の心が奪われていく感覚があった。
道は静まり返り、女性の姿が見えなくなった瞬間、そっと風が吹き抜けた。
彼女は、選ぶ余地もなく、ただ道を進むことにした。
しかしその心の中には、もう光は戻らなかった。
美咲は今、どこに自らの道が続いているのか分からないまま、孤独な選択を続けていた。
何度も振り返り、彼女はその運命が次第に暗闇に飲み込まれていくのを感じた。