「選ばれた声」

夏の暑い日、大学生の尚人は友人たちと旅行に行く計画を立てていたが、急にメンバーが一人抜けることになった。
彼の代わりに、尚人のクラスメートである優子が参加することになった。
しかし、優子はあまりにも内気で、旅行の途中でも会話に加わることが少なかった。
して、尚人は何か彼女をもっとこの旅に引き込む方法がないものかと考えた。

旅の初日は海に近い電波塔がある岬を訪れることになった。
その電波塔は地元では「語りかける塔」として知られ、若者たちが訪れるたびに様々な体験談が語られていた。
曰く、その塔には不思議な力が宿っていて、特定の時間に塔の側に立つと、誰かが自分に語りかけてくれるというのであった。
尚人はこの話を優子に教え、彼女の興味を引こうとした。

曇りがちだった空が次第に暗くなり、旅行の予定時刻となった午後八時に、尚人たちは電波塔の偉容を目の前にした。
塔は静まり返った中で、まるで何かを待ち望んでいるかのように佇んでいた。
皆がワクワク感を抱く中、尚人は優子に「一緒に塔に近づいてみよう」と提案した。
優子は少し躊躇ったものの、少しずつこの場に慣れていく様子だった。

彼らが塔の真下にたどり着くと、静寂の中で一瞬風吹き抜けた。
その瞬間、尚人は背筋に冷たいものを感じた。
「何かいるのかもしれない」と思うと同時に、優子が何かに引き寄せられるように塔に近づいていった。
尚人は慌てて彼女を引き止めたが、優子は不思議と無抵抗で、塔に向かって手を伸ばした。
夕暮れ時の淡い光の中で、優子の目が恍惚としているのが見て取れた。

「尚人、これは…見える」優子の声は震えていた。
「私に話しかけてくる人がいる…」その瞬間、塔からほんのりと光が漏れ出し、真っ直ぐに優子のもとに伸びていった。
尚人は次第に恐怖を感じたが、何かとても不思議なことが起きていると本能的に感じた。

優子はその光に包まれながら、目の前に見えない相手との会話を続けていた。
尚人は彼女の様子を見ているうちに、「あなたは選ばれたのよ」とか「私が導いてあげる」といった、かすかな囁き声が聞こえてきたように思えた。
優子自身もその言葉に引き込まれ、次第に知らない感情に飲み込まれていく。

「私…何を選ぶべきなの?」優子がつぶやくと、その言葉に応じるように、塔の光がさらに強まり、周囲の景色が薄暗くなっていった。
「あなたの未来を選びなさい。」

尚人は、まるで優子が何か別の存在に持っていかれるかのように見えた。
焦りが込み上げてきて、「優子、やめて!」と叫んだ。
しかし、彼女はまるで尚人の声が聞こえないように見えた。
光は彼女を包むのみならず、周りの空気すら変えてしまった。

その時、塔が低い音を発し始め、「依存する相手を選び、心の自由を失うのか?」という声が響いた。
尚人は恐ろしい思いで耳を塞ぎ、優子がこのまま塔に捕らわれるのではないかと心配した。
恐ろしい光景が彼の脳裏に焼き付く。
彼は優子を必死に引き戻そうとするが、全ての力がその場から消えていくかのように感じた。

とうとう、光が優子を包み込み、彼女の姿が徐々に霞んでいく。
尚人の目の前から彼女が見えなくなり、ただの風景だけが残った。
その瞬間、塔の周りに静寂が訪れ、優子の姿は完全に消えてしまった。
尚人は呆然と立ち尽くすしかなかった。

次の日、尚人は一人で旅行を続けることになった。
しかし、心のどこかでその日の出来事が彼女に何をもたらしたのかを考えると、胸に痛みが広がっていく。
その後、尚人は優子の名前を口にすることさえも避けるようになり、旅行から帰ったころには彼女との関係は過去のものとなっていった。
あの「語りかける塔」が、その後ずっと彼の心に恐怖を刻み付けることになるとは、尚人自身も知らぬままであった。

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