「遠くて近い影」

ある夜、静かな郊外にある小さな精神科病院に、遅くまで残業をしていた看護師の田中は、少しずつ疲労感を感じながらも、日常業務を続けていた。
この病院は長年、何度も噂に上がるような不気味なエピソードを耳にする場所であった。
特に、最上階の「遠くて近い部屋」と呼ばれる診療室には、入りたがる者が少なかった。

その響き渡る夜、田中は患者の一人である稲垣の病室に足を運んだ。
稲垣は神経症を患い、症状の一環としてしばしば無言のうちに幻覚に悩まされていた。
とても穏やかで静かな青年だったが、彼の瞳の奥には何か恐ろしいものが潜んでいるように感じれた。

「田中さん、お願いがあります」と稲垣は静かに言った。
その口調は不安に満ちていた。
「この院に、もう一度行ってほしいんです。」

田中は驚いた。
稲垣は、自らが入院する病院の中でも特に恐れられている最上階の部屋を指していた。
だが、彼は続けた。
「私は、そこに私の大切なものがあるんです。毎晩、夢の中でそれを探し続けています。」

用心深く、田中は稲垣の思いを考えた。
彼の心の中で押し寄せる葛藤。
果たしてそんな場所に行く価値があるのか。
しかし、同時に彼の言葉には何か引きこまれるものがあった。
彼女には、いくつもの理由があって迷っていた。
結局、寂しそうな稲垣の目に負けて、田中は決意した。

夜も更け、病院は静寂に包まれていた。
田中は少し心臓が高鳴っているのを感じつつ、最上階へ向かうエレベーターに乗り込んだ。
着いた瞬間に、異様な静けさに包まれたその廊下が迎えてくれた。
その空間には、かすかな不気味さが漂っていた。

彼女はひときわ無口な部屋のドアを開いた。
中には不気味なほど整然とした書類と、相変わらずの白い壁が続いていた。
しかし、部屋の隅には一つの古い木箱があった。
その中には、稲垣が失くしたと思っている大切なものである日記があった。

田中はそれを手に取った瞬間、強い痛みが左胸に走った。
その瞬間、稲垣の「遠くて近い場所」の言葉を思い出した。
彼は一番大切なものを失うことで、自身の病を深めていたのか。
それは心の奥底から引きずられる感情のようだった。

その時、田中の背後でかすかな声が聞こえた。
「戻ってきて、私を助けて…」振り返ると、そこには無表情の若い女性が立っていた。
その顔は見覚えがあった。
以前、院内にいた一人の患者のものだ。
彼女はこの部屋の過去を知っている、そう直感した。

田中は急いで部屋を後にし、他の患者たちが眠るフロアへ戻った。
しかし、その時、稲垣のことを心に留めることを忘れられなかった。
彼が抱える恐怖、その幻聴。
それはこれからも続くのだろうか。

数日後、田中は再び稲垣の病室を訪れた。
彼はそこで、夜の出来事を話そうとしたが、稲垣はどこか焦燥感に駆られている様子だった。
彼自身もここから離れられない様子だった。
目には明らかに暗い影が残っていた。

「田中さん、あなたも私のようになってしまうのですか?」その言葉が彼に刺さった。
稲垣は恐れをいだいていた。
「この院では絶対に逃れられない。私は、私を忘れないでと言ったのに…」

結局、田中は何も言えなかった。
彼女は、彼を助けるために戻ってくるのが難しくなっていることを理解した。
しかし、その日を境に、田中もまた、不穏な夢に苛まれるようになった。
彼はただ日常を続けるしかなかったが、心の奥にはいつも「遠くで迷っている」と感じていた。

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