彼女の名前は美咲。
結婚して数年が経ち、幸せな日々を送っていたが、最近、何かが彼女の心をひっかき始めていた。
それは、音だった。
静かな夜、彼女はいつも彼と一緒にいる寝室で、誰もいないはずの廊下から微かな音が聞こえてくるのを感じるようになったのだ。
その音は、まるで誰かが唸っているかのような低い声や、かすかなささやきのようだ。
初めのうちは、疲れを感じているせいだろうと思っていた。
しかし、音は次第に頻繁になり、夜が深まるとともにその周波数が増していくようだった。
美咲は夫にそのことを話そうと思ったが、彼には心配をかけたくなかったため、内心で自分だけの秘密として抱えていた。
ある夜、美咲は眠りに落ちていたが、突然、目を覚ました。
廊下から響くあの音。
まるで自分の名前を呼ばれているかのように、耳元で泡のように響いていた。
「美咲…」そう、呼ばれている気がした。
翌朝、彼女はその音について考え、彼に伝えようか迷ったが、やはり止めておいた。
だが、次第にその声は美咲の心に迫り、彼女は夜ごとに音の出所を探る決意をした。
彼女は軽やかに寝室を出て、音のする方へと向かう。
薄暗い廊下を抜け、音の出所に近づくたびに、心拍数は早くなっていった。
廊下の突き当たりにあるドアを開けると、そこには何もない。
ただの空間。
しかし、彼女の心の中では何かが叫んでいた。
音は消えたが、どこかで誰かが見つめている気配を感じた。
どうしてもその意識から逃れたくて、美咲は背を向けてドアを閉めた。
だが、翌朝、目覚まし時計で目を覚ました美咲は、寝ている間に何が起こったのか鮮明に思い出せなかった。
ふと、彼女の手に何かが触れた。
その瞬間、彼女は痛みに反応した。
見ると、手には小さな切り傷があった。
どうやってできたのか全く心当たりがない。
驚き、ふと見上げたその時、目の前の鏡に映る自分が何かを示唆しているかのように思えた。
彼女の背後には、白い影がちらりと映った。
美咲は恐怖と共に、その影が何を意味するのかを知りたくなり、再び音の出所へ向かうことを決意した。
毎晩のように響く音はただの幻影ではないと信じたのだ。
音の正体を知ることが、この恐怖の全てを終息させる方法だと。
ある晩、美咲は一層強い意志を持ってドアを開け、音の根源を探り出そうとした。
廊下をしっかりと進んでいくと、また昨晩の場所にたどり着いた。
そこで、彼女は突如として視界が揺らぎ、過去の記憶が押し寄せてくるのを感じた。
自分が結婚する前、友人に無理に引きずられて訪れた廃墟の音。
その場所で語られた不気味な都市伝説を思い出した。
「そこに住んでいた人は、決して忘れてはいけない。」彼女の心にその言葉が浮かび、同時に音が更に強くなった。
美咲はその瞬間、何かを割るような音を耳にし、見ると床に落ちていた一枚の写真が目に入った。
そこには、彼女の見知らぬ友人たち、そして誰かが微笑んでいる笑顔の中に、彼女自身が小さく写り込んでいた。
その瞬間、過去の仲間たちを思い出し、特に一人の友人に対する自責の念が押し寄せた。
彼女は、その友人を忘れていたのだ。
それが、音の正体だった。
過去の思い出が呼び起こされ、彼女が繋がりを切った記憶が音となって響いていたのだ。
そして、その友人の印が、彼女の心の奥深くに刻まれていた。
恐怖から逃れ、忘れないという強い意志を持つことで、美咲はその音が彼女の忘却に対する警告だと気づいた。
もう一度、彼女はその友人たちを思い出し、音の背後にあるメッセージを理解したのだった。