ある日、高校生の健太は、親友の翔太と一緒にひっそりとした山道を歩いていた。
この道は地元の人たちには「運の井」と呼ばれる場所があり、訪れる者には運気が上がるとも、逆に悪い運を引き寄せてしまうとも言われていた。
その場所には古い井戸があり、何か得体の知れないものが潜んでいるという噂があった。
健太はどうしてもその井戸の真相を確かめたくなり、翔太を誘ったのだ。
「お前、本当に行く気か?」と翔太は不安そうに言ったが、健太はうなずいた。
「運気が良くなるなら行かなきゃ損だろ。心配しないで、すぐに帰るからさ。」
二人は夕暮れ時に井戸に辿り着いた。
周囲は薄暗く、ただ風の音だけが耳に響いていた。
井戸は古びた木製の蓋がかかっていて、どこか不気味な雰囲気を醸し出していた。
しかし、健太の好奇心は抑えきれず、井戸の蓋を開けてみることにした。
蓋を開けると、中からは黒い水が見えた。
その水はまるで深い闇に飲み込まれているかのようで、どこまでも続いているように感じられた。
健太は不気味さを感じながらも、思わずその水に手を入れてみた。
「何か感じないか?」と尋ねると、翔太は一瞬口ごもったが、「なんか…冷たいだけだよ」と答えた。
その時、健太の目の前に異様な光景が広がった。
水面が揺れ、その中から彼の心の奥深くにある思いが映し出されていく。
潤いのある笑顔や、忘れられない昔の愛の記憶が次々と現れては消えていった。
彼はその中に元恋人の美咲の姿を見つけた。
最後に彼女と一緒にいた日、笑い合っていた記憶が鮮明に浮かび上がった。
それと同時に、彼女との別れの悲しみも再び心に蘇った。
「おい、健太、大丈夫か?」翔太が心配する声が耳に入った。
健太は強い運を求める気持ちと、美咲の記憶との狭間で揺れ動いていた。
運が上がるなら、美咲のことも取り戻せるのではないかという淡い期待が心の中で芽生えていた。
その瞬間、井戸の底から低い声が響いてきた。
「求む者よ、心を賭けるか?」健太は驚いて周りを見渡したが、誰もいなかった。
声は再度響いた。
「あなたの愛も、心の運も、全てを賭けるべきだ。」
健太は瞬時に決断した。
「賭ける。美咲を取り戻したい。」彼は奥深くから沸き上がる感情を感じながら、声に応えた。
しかし、翔太は彼の手を掴み、「やめろ、健太!それは危険だ!」と叫んだ。
しかし、健太の心は完全に井戸の声に囚われていた。
水面がさらに激しく波打ち、彼の心の奥底にあった愛の記憶が転送されるように広がり始めた。
幻想の中で美咲は微笑みながら手を差し伸べ、彼を誘っている。
突如、井戸の水が噴き出し、健太を飲み込むように迫ってきた。
「心の運を得る代わりに、今は愛を失うことになる」と声はささやいた。
健太は恐怖を感じ、逃げようとしたが、身体が動かなかった。
翔太は絶望的に叫んだ。
「健太、出よう!お前にはまだ未来がある!」その言葉が彼を引き戻した一瞬、井戸の水が再び静まった。
健太は急に現実に戻り、振り返った。
しかし、その瞬間、彼の心の中で美咲の顔は消えていき、曖昧な感情が残った。
結局、健太は井戸から逃げ出し、山を下っていった。
彼の求めた運は手に入らなかったが、翔太と共に帰ることができた。
しかし、心の中にその愛の記憶は残り、彼の求めが叶うことはなかった。
運気とも愛とも言えない、空虚な感情が彼を包み込むこととなった。
あの日の選択の代償は、ずっと彼の心に影を落とし続けるのだった。