春のある日、智恵は友人たちと共に、桜の名所として知られる公園にピクニックに出かけた。
彼女たちは、満開の桜の下で日差しを浴びながら楽しい時間を過ごし、写真を撮ったり、お弁当を食べたりしていた。
智恵はその日、特に楽しい気分でまるで時間が止まったかのように感じていた。
その日は人混みも少なく、静かで穏やかな日和だったが、一つだけ違和感を覚えたのは、桜の木の根本に置かれた一隻の古い船だった。
船は大きくて、使い古されたような印象を与え、何か不気味な雰囲気が漂っていた。
智恵はその船に興味を惹かれ、近付いてみることにした。
友人たちはそのままおしゃべりに夢中で、彼女を気にしていなかった。
船に近づくと、彼女はそこで奇妙な光景を目にした。
その船が満開の桜に囲まれながら、逆さまに浮かんでいるのだ。
不思議に思い、智恵はその現象を確認するために船の中に入ってみることにした。
中は空っぽで、何も見当たらなかったが、不思議なことに船の底に桜の花びらが散らばっていた。
それらは鮮やかでありながら、どこか薄暗い印象を与えていた。
智恵が花びらに触れると、突然、周囲の景色が変わり始めた。
彼女は周りが逆さまに揺れているのを感じ、まるで船自身が彼女を引き込んでいるかのようだった。
その瞬間、智恵の視界がぼやけ、桜の花びらが舞う中、彼女の心に不安が迫ってきた。
「見なければ良かった」と思ったとき、彼女は何かに気づいた。
その船の底には、不気味な印が刻まれていた。
それは古い文字のようで、彼女には読めなかったが、心の底から恐怖を感じた。
智恵は急いで船から飛び出し、仲間たちの元へ戻ろうとしたが、何かに引き留められる感覚があった。
後ろを振り返ると、桜の木がまるで彼女を見つめているように感じ、智恵は思わず目を逸らした。
友人たちに戻った智恵は、不安を隠すように明るく振る舞おうとしたが、その笑顔はどこか硬いものだった。
友人たちはその様子に気付き、「どうしたの?」と尋ねたが、智恵は何も言えなかった。
その時、耳元に誰かの声が響いた。
「見てはいけないものを見てしまったね」と囁く声だった。
彼女の心はさらに不安に包まれ、一体何が起こったのか理解できずにいた。
桜が散り始める頃、智恵はその船のことを忘れようと無理をしたが、日に日にその異様な印が頭から離れなかった。
後日、智恵が再びその公園に足を運ぶと、その船は影も形もなく消えてしまっていた。
それでも心の中には、逆さまになった船の光景が生々しく残っていた。
そして何かに見られているような感覚は消えなかった。
その後、智恵には悪夢が続くようになり、特に桜の花びらが舞う夢を見ることが多かった。
夢の中では、船の底の印が彼女の目の前に浮かび上がり、その度に恐怖に駆られた。
「見てしまったことは忘れられない」と思っても、心の奥底ではそれを忘れたいと願っている自分がいた。
春が過ぎ、桜の季節が終わるころ、智恵は自分が見たものと向き合う決心をした。
そして、友人たちを誘ってもう一度その公園を訪れることにした。
しかし、再び訪れても船は見当たらず、すべてが元通りの景色に戻っていた。
安堵したが、心の中には何かがまだ引っかかっていた。
帰ろうとする直前、智恵は再びあの桜の木の前に立ち尽くしていた。
彼女の目の前には、仲間たちとの楽しい思い出が詰まった桜が広がっていた。
だが、心の奥に潜む不安は消えなかった。
「見なければ良かった」と呟きながら、智恵はその場を後にした。
彼女はいつまでこの恐怖から逃れられるのか、それは誰にも分からなかった。
桜の花びらが舞う背後で、彼女の心の中にはまだ逆さまの船が存在していた。