「逃げる影、失われた声」

彼女の名は美紀。
視力を失ったのは幼い頃からで、すっかりその生活に慣れていた。
声や触覚、彼女の周りの空気を感じることで、世界を把握していた。
そんな美紀は、ある日、聞き慣れない噂を耳にした。
それは「昇り降りする影」と呼ばれる現象についてだった。

その影は、街の外れにある古びた廃屋で目撃されるという。
美紀はその場所について、村人たちからほとんど話を聞くことはなかった。
しかし、彼女が興味を持つきっかけとなったのは、村から少し離れた場所で出会った老人の一言だった。
「あの廃屋には、失われたものたちの声が響く」と。

その言葉が心の奥に引っかかり、彼女の中で何かがざわめき始めた。
失われたものたち、そして昇り降りする影。
美紀は、自分がその影を体験することができるのではないかと思った。
自分の想像力を駆使して、何かに逃げるように現実から離れたくなったのだ。

美紀はその廃屋を訪れることを決意した。
彼女はその場所に向かう途中、周囲の音に耳を傾けた。
風の吹く音、遠くで鳴く鳥、そして自分の足音。
周囲の情報を頼りに、彼女は慎重に廃屋にたどり着いた。
古びた木の扉を開けると、自然光が差し込むことはなかった。
恐る恐る一歩を踏み入れると、薄暗い空間が彼女を包み込んだ。

しばらくすると、彼女の耳に何かが聞こえてきた。
低い声で何かを囁く音。
それは自身の心の奥から沸き上がる感情と共鳴するように響いていた。
美紀はその声に導かれるように、少しずつ奥へ進んでいった。

突然、彼女の目の前に影が現れた。
その影は高く伸びたり低く縮んだりしながら、まるで彼女を見つめているようだった。
美紀は恐怖に震えたが、同時にその影に引き寄せられる不思議な感覚を覚えた。
影の周りには数多くの声が重なり合い、彼女の耳にほとんど聞こえない囁きが流れ込んできた。
「逃げなさい」、「ここから出て行け」、「忘れてしまえ」。

その言葉たちは、彼女の胸の中で苦しむ感情を刺激した。
美紀は気が狂いそうになりながらも、自分の過去に向き合う必要があると感じていた。
失った視力、幼少期の孤独、そして心に巣食う不安。
彼女は必死に立ち上がり、影に向かって叫んだ。
「私は逃げたくない!」

その瞬間、影は一瞬止まり、彼女の耳に響く声が変化した。
彼女の心に蓄積された失望感や悲しみが、逆に彼女を包み込むように増幅していく。
その波に飲み込まれそうになりながら、美紀は考えた。
自分の全てを受け入れ、失ったものを抱きしめることができれば、この影から逃れることができるのではないか。

心の中にあるその思いを強めていくと、影は徐々に彼女から遠ざかっていった。
その影は、彼女が失っていた視覚や思い出の全てだった。
彼女の決意が届いたのかもしれない。
美紀はそのまま少しずつ後退し、廃屋の出口へと向かっていった。

外に出ると、明るい太陽の光が彼女を包み込んだ。
視力はないままだが、彼女はその光を感じることができた。
新しい感情が彼女の中で生まれ、少しずつ温かくなっていく。
しかし、振り返ることはできなかった。
影は今、彼女の心の中に残り続けるのだと感じた。

美紀は新しい自分を受け入れることに決め、自分自身の足で未来に歩み出すことを選んだ。
過去を失ったとしても、明日はある。
その思いを胸に、彼女は村へと戻っていった。
影は彼女を見送るかのように、静かに昇っていった。

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