「迷いの森に囚われて」

彼女の名前は佐藤明美。
都会の喧騒から逃れ、静かな田舎町に移り住んで二年が経った。
自然に囲まれたこの地は、日常の喧騒とは無縁で、時間が緩やかに流れているように感じていた。
しかし、ある日、彼女の心を乱す出来事が起こることになる。

明美は、住み始めた町の裏山にある不思議な森の話を聞いた。
人々の間では、その森に迷い込むと、戻れなくなるという噂が広がっていた。
興味本位でその森に足を踏み入れた明美は、初めは美しい自然に心を奪われていた。
しかし、徐々に雲行きが怪しくなり、体感時間が狂っていくように感じた。

その森は、道が無数に枝分かれしていて、どの方向に進んでも同じ景色が広がっていた。
不安を感じた明美は、来た道を戻ろうとしたが、何度試みても辿り着くことができなかった。
かすかに聞こえる風の音が、時折女の囁きのように聞こえてくる。
不安が募りながらも、彼女は進み続けた。

「帰りたい」と呟く明美の声が森に吸い込まれていく。
ふと視界に入ったのは、先に進むにつれて現れた古びた小屋だった。
扉は微かに開いており、彼女は思わず中を覗いた。
小屋の中には、昔の写真や道具が無造作に置かれ、まるで誰かがここで暮らしていたかのようだった。
その瞬間、胸の奥にいくつかの記憶が蘇る。
明美は何故かそれが見覚えのある光景だと感じていた。

小屋の奥には、もう一つ扉があった。
彼女は恐る恐るその扉を開けた。
すると、そこにはまばゆい光が差し込む空間が広がり、その中には、様々な時代の人々が楽しそうに笑い合っている姿が見えた。
明美はその光景に引き寄せられるように足を踏み入れた。

彼女は、心の奥底から懐かしさを感じた。
この光景はまるで子供の頃、家族と過ごした楽しい時間のようだ。
しかし、彼女の心に潜む疑念が一瞬、彼女を後ろ向きにさせた。
「ここに来てはいけない。戻るべきだ」と。

その時、彼女の目の前に一人の老女が姿を現した。
老女は優しい笑顔を浮かべながら、「時を忘れ、みんなとここで過ごせるのよ」と囁いた。
明美は彼女の言葉に魅了されながらも、何かが引っかかっていた。

「お母さん」と心の奥から叫ぶ声が聞こえた。
老女の顔はその瞬間、明美の母のものと重なり合った。
明美は、幼い頃に亡くなった母のことを思い出し、涙が溢れそうになった。

「さらに一緒に時を過ごしたいという気持ちがあるのなら、ここに残るがいい」と老女が言った。
その瞬間、明美は自分に問いかける。
この美しい光景が、果たして本当に幸せな時間なのか、それとも永遠に戻れない迷いの森の一部なのか。

心の中で葛藤が続く。
「忘れたくない。でも、帰らなければ」と思う明美。
しかし、不安な気持ちを抱えたままでいると、老女の微笑みは険しいものに変わっていった。

「戻りたくないか?」と一瞬の静寂が流れ、そのあとに包み込むような声が蘇った。
「迷い込むこと自体、あなたの心が選んだ道なのだから。」

突如、森全体が震え始め、光は一瞬で消えた。
明美は急いで小屋の外に飛び出したが、時はすでに彼女の考える意志を無視して進み続けていた。
周囲は再び同じ景色が繰り返され、彼女は迷えずに立たされていた。

「このまま、時間の中で迷い続けるのか?」心の中で叫ぶ。
しかし、見えるものは無限に続く森と、彼女の背後で静かに囁く影たちだけだった。
明美は人々の笑い声や、老女の囁きを忘れることができず、ただその場に立ち尽くした。

彼女は今、決して戻れない瞬間に囚われてしまったのだ。
時間は飽くなき迷路となり、明美を永遠に捕らえ続けることになる。

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